商大案の運命 : 形勢頗る切迫 : [奥田文相提案と商科大学問題]
- 日付
- 1913-12-10(day)
- 渋沢関連
- ○ 渋沢栄一に直接関わる項目
![商大案の運命 : 形勢頗る切迫 : [奥田文相提案と商科大学問題]](https://da.lib.kobe-u.ac.jp/files/iiif/1/20000/0100356290/476001.tiff/full/900,/0/default.jpg)
説明
高商側の協議 商大案に関し奥田文相は当初極めて其の前途を楽観し愈々其の成案を見るの暁に於ては実業家側は勿論高商側に於ても容易く応諾す可きものなりと予測したるに先月下旬文相が帝大評議員賛助の下に計画したる商大案を提案するに至るや文相の予想は着々失敗に終りて最初賛成の模様有りし渋沢中野氏等の如きも逸早く反対の態度に出でたるのみならず高商側の反対は意外に強硬にして文相の諮問以来同校同窓会を本部として益々反対の気勢を高め飽迄も積年の宿志を遂げんと敦圉きつつあるが為めに文部省に於ては切りに商大案延期説を流布しつつあるも高商側反対の気勢は却って次第に猛烈となるのみなるを以て文相の狼狽一方ならず数日前渋沢男に会見を求め其の結果去る三日の渋沢、中野両氏及び坪野高商校長等の協議となりたるも未だ何等の解決を見るに至らざりしが為めに更に昨八日も午後より商業会議所に於て渋沢、中野両氏及び坪野校長、佐野、関両教授等の会見と成り長時間に亘り種々協議を凝らす所有りたるが 高商興亡の分岐点 奥田案に依る時は高商側が十三年来の主張は全然蹂躪せらるるのみならず経済科をも商科大学中に…
言及人物
典拠・外部リンク
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