手形事件の雲行
- 日付
- 1913-2-21(day)
- 渋沢関連
- ○ 渋沢栄一に直接関わる項目

説明
三井物産会社七十六万円事件の被害銀行と物産側との交渉事件は物産側の依託により渋沢男が愈仲裁を引受けしとの事にて目下同男は事件の内容と法律問題並に手形取引上の手続等を頻に研究中なりとの事なるが被害銀行四行中鴻池は行掛上全然別物扱となり居り他の三行中の四日市銀行は資本の薄き上に二十一万円と云う大負担ある丈に大に持ち倦みて無条件を以て仲裁方を渋沢男に依頼したる由なるも愛知、十六の両行は幾分腰強く到底無条件にては男に一任せず男の口より物産側の意見の大要を聴取したる上ならでは依頼せずと主張し居れリ尤も斯くては渋沢男の顔を損するわけなれば或は男をして手を引かしむるに至らんかとの風評もありたれど実際は愛知も十六も大分に閉口して一日も早く解決を見るを希望し居るものにて大体の処にて妥協は成立すべく現に愛知銀行頭取渡辺義郎氏は右問題の為一両日前上京し勧銀総裁なる志村源太郎氏邸(渡辺氏の令兄)に宿泊して日々奔走しつつあり又右問題に多少の関係を有する三井銀行名古屋支店長矢田績氏も二十一日上京したれば遠からず局面は一展開を見るに至るべし(名古屋通信)
言及人物
典拠・外部リンク
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- 日記1913-2-21二月二十一日
二月二十一日 金 雨 寒 午前七時 起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後、来書ヲ点撿ス、 午前九時 東京瓦斯会社 ヲ訪ヘ、 福島 氏ニ面会シテ近火見舞ヲ為シ、又、 堀井 医師ヲ訪フテ同シク慰問ス、 九時半 事務所ニ抵リ書状ヲ認ム、 十時 過 益田 孝 氏来話ス、 十二時 頃 孫 氏来訪セラル、又、 戴 天仇 、 山本 条太郎 氏ト共ニ来会ス、蓋シ 孫 氏ハ 十時 ニ訪問ノ約ナリシモ陸軍学校ニ訪問セシ為メ遅引ノ由ナリ、依テ 益田 氏、 山本 氏ト共ニ種々ノ談話ヲ為ス、日 華合弁事業ニ付両方ノ意見ヲ交換ス、 一時 一同午飧ヲ共ニシ、食後更ニ協議シ、追テ覚書ヲ作リ再応評議スヘキ事トス、 午後三時 孫 氏去リテ直ニ 桂 公爵ヲ訪ヘ、種々ノ談話ヲ為ス、 四時 事務所ニ於テ来人ニ接ス、 五時 保険協会ニ抵リ、実業家聯合ナル 孫 氏歓迎会ニ出席シ、余興畢テ食卓上一場ノ演説ヲ為シ、 孫 氏及 汪 公使、 胡 瑛 氏ノ演説アリ、賓主歓ヲ尽シ、夜 十一時 過散会ス
詳細 - 年譜1913-2-21第49巻
是より先栄一、竹内隆卿碑の篆額を揮毫す。是日、千葉県小金町二於ける同碑除幕式に列す。
詳細 - 事業1913-2-21
竹内隆卿碑
詳細 - 井深1913-2-21〔大正2年(1913年)2月21日〕
二月二十一日(金) 授業如例。 午後六時、ドクトルデヤリングニ招カレテ築地精養軒ニ赴ク。主人方ハ同氏並ニテニー氏、グリセツト氏、客ハ元田作之進ト余ノ二人ノミナリキ。其他ニ平岩、星野、角倉ノ三氏招カレタル由ナレトモ来ラザリキ。東京学院発展策ニ付種々相談アリキ。
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