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- 黒田1884-2-9二月九日(香港日記)
二月九日(香港日記) 九日午後四時過ギ同行橋口氏ト墓見物ニ出掛ク 道ヲ知ラザルヲ以テ旅宿ヨリ駕籠ニ乗ジテ行ク 左方ニ進ム 然ルニ此方ハ右方ノ雑踏トカハリ仙境ニ入ルガ如キ所アリ 又文明国ニ遊ビシガ如キアリ 壮快ナル家屋アリ 運動場アリ 競馬場アリ 其間ニ軍人等相携ヘテ歩行ス 又本日ハ土曜日ナル故カ運動場ニ於テ衆人戯遊ス 楽隊ハ楽ヲ奏ス 実ニ心自愉快ナリ 山ヲ見レバ遠方カラ見シトハカワリ岩石起伏ノ有様画ケルガ如シ 山頂ハ植木無シ 麓ニ近ツクニ従ヒ樹生ス 麓ニ松樹多シ 併シ甚タ大ナル者ヲ見ス 却説橋口氏ト駕籠ニテ行ク 道路平坦也 而一本道也 路傍樹有リ 之ヲ見レバ枝多クシテ繁ル 而葉ハ榊ノ葉ノ如クニシテ小ナリ 根ハ四方八方ニマタガリ網ヲ張リシガ如シ 又枝ヨリ根ヲタル其長サ一間余ニ至ルモノ有リ 此木ハ生等ノ旅宿ノ辺ヨリ左方ノ路傍ニ植エタリ 右方ノ市街ニハ樹木ヲ見ズ 少シク進ミ行ケバ小坂アリ 登リ又下ル所ナリ 此ノ坂ヲ下リ右折シテ二三丁行ケバ競馬場ナリ 此辺四方山ニシテ景色美ナリ 偖此ノ競馬場ノ屏ワキニ竹ヲ植エタリ 是則鹿児島ノ金竹ナリ 而鹿児島ノ垣ナドニセシモノニ比スレバ至大也 又此ノ所ニハ小屋多ク作リ居タリ 是レ競馬ヲ見ルサジキト推察セリ 其柱等ハ小ナル丸木以テ作レリ 四ッ谷丸太ノ様ニ美ナルモノニ非ス 屋根ハ株梠ノ葉ノ如キモノヲ以テカヤ葺ノ如ク作リタリ 此辺路傍ニ草ノ様ナ木ノ様ナ其葉ハ細クシテ長ク葉ノフチニ針有リ而衆葉束ネタルガ如ク一ツ所ヨリワントヲヱタリ 余初メテ見聞セリ 此競馬ノ入口ヨリ籠ヨリ下リ遅々歩シテ墓所ニ至ル 到レバ其風日本ノ公園地ノ如クニシテ樹木雑植松アリ 蘇鉄アリ 其樹間ニ墓アリ 而此ノ所ニ植エタル樹木ハ余ノ未ダ夢ニモ見ザル者多シ 而カモ尤モ奇ト云可キハ夏ノ草花多ク咲キタリ 第一桜草又葵ノ如キ葉ニテ桃色ノ一寸桜ノ如キ花ヲ咲ク草日本天神ノ市ナドニ沢山有ル者也 其他名ヲ知ラザル草花等コテト咲キタリ 蜜柑ノ木ノ花咲キタルモアリ 松樹等緑ヲ争ウ中ニ又此ノ紅色ヲ交ヘ夏ト冬ト一度ニ来リタルガ如キ心地ス 又モウソウチク位ノ竹ニテ縦ニシマアル者有リ 又鹿児島ニテヘゴト云草アリ 其葉一本ノ長サ二間斗ニ至ル 而幹長ク地上ニ出テ殆ド蘇鉄ノ如キ風ヲ為ス 余此ノ墓地ヲ徘徊スルノ間奇妙美麗ヲ云ヒツヾケタリ 又一ツノ奇談アリ 今夜当地在留陸軍士官三浦氏(此ノ人ハ平田氏 大迫氏等ト同ジク士官校ニ在リシ人ニシテ十年戦争ニモ出ラレタリシ由 又楠公ノ墓前ニ於イテ衆人ト写シタル写真アル由ナリ 此段ハ無用ナレドモ一寸千田嘉吉兄ニ申上候 若シ写真デモ有之候得バ御覧ナサル可ク候)ト共ニ三人連レニテ食事ヲ為サント食事室ニ至リ三人机ヲ囲ミテ座ス 此ノ三浦ト云人ハ髪及ヒ服ニ至ル迄皆支那風ニ変ジ言語ヲ交エザレバ其日本人タルヲ弁スル能ハズ 已ニ昨日日本領事館ニ於テ始テ対面ノ日橋口氏支那人ナラント思ヒ其能ク日本語ニ通ズルヲ云ウ 其人答テ曰ク 我日本人ナリ 於是余モ亦始メテ其日本人ナルヲ知ル 然ルニ今夜食事室ニ入ルヤ外人亦其支那人ナルヲ思フ 亭主ラシキ白人来リ曰ク 支那人此ノ処ニ於テ食スルヲ得ズ 此ノ言タルヤ支那人ヲ入ルレバ他ノ客ニ失敬ニナル由ナリ(此ノ食事室ハ一机ニ四人ヅヽノ者数十アリ而今夜モ多人数食事ヲ為シ居タリ) 橋口氏大声叱シテ曰ク 彼ハ日本人也 非支那人 白人去ル 此時衆客皆何事ナルカト思ヒシヤ此ノ方ヲ見タリ 又直ニ黒人来ル 此ノ黒人ハ甚ダ黒クアラス 白人ニ類ス(当地ニハ日本人ニ甚タヨク似タル人多シ 併シ言葉ヲ聞ケバ外国人ナリ 是レ即チ黒人ト白人ノアイノコ也ト云) 此人ハ当家ノ幹事ノ如キ者ト見ヘタリ 橋口氏ニ言ウテ曰ク 彼ハ日本人ナリト雖モ服変ズ故ニ支那人ノ如シ 当家ニ於テ支那人ヲ此室ニ入ルヽヲ禁ズルハ規則也 請フ他室ニ行カン事ヲ 橋口氏曰 規則ナレバ止ヲ得ズ 故ニ共ニ倶ニ此ノ室ヲ去リ他室ニ至リ食ス 黒人拙者等ノ去リシヲ甚ダ気ノ毒ニ思ヒシト見ヱ色々小使ニ指揮ヲ為シソコツナカラシムルガ如シ 而シテ又来リ謝シテ曰 英人ハ自己ニ驕ル 実ニ只今ノ事ハ実ニかなしき次第ナリ 橋口氏答テ曰ク 心配スル勿レ 此一事ヲ以テ支那人ノ権利ヲ失フ又見ル可シ 我領地ヲ取ラレ其所ニ来住スル旅宿ニ行キテモ常人ト同室ニテ食スルヲ得ス 長嘆息ノ至リナリ 三浦氏曰ク 船ニ乗スルモ支那人ハ上等ニ乗ル事ハ出来ズト 諸君ヨ勉哉
詳細 - 黒田1884-2-11二月十一日附 香港発信 父(清綱)宛 封書
二月十一日附 香港発信 父(清綱)宛 封書 寸紙謹呈仕候 益御安康之筈奉大賀候 私儀海上無事八日午前七時当地ニ安着仕候間乍憚御休神可被下候 扨テ船中ハ万事直右衛門様御世話ヲ以テ都合宜敷七日間中等室ニテ起臥仕候 着港スルヤ直ニ領事館ニ至リ書記生平都氏之案内ヲ以テホンコンホテルト名クル旅店ニ止宿仕候 同夜領事館ニ於テ日本料理之馳走有リ 昨日ハ東京寿し本日ハ鹿児島寿し之馳走有リ候 当地ハ日本ニ近キニ依リ日本之物ニハ不自由無之候 此ノ香港ト申所ハ桜島ヨリ少々大ナル島ニテ市街等ハ美麗ニハ無之候得共皆三四楷也 通路ハ大抵阪也 是山麓ニ家屋ヲ建築セシ如キ処ナルヲ以也 委細ハ写真ニテ御一覧可被下候 此地ニテ第一ノ驚愕ハ八日橋口氏ト断髪セシ所其賃金八十銭余九十銭計但シ一人分ニテ実ニ閉口仕候 清仏一件ハ未ダ戦場之様子無之由ニ御座候 当港ニハ仏軍艦数個定泊致シ候 領事町田氏ノ話ニ広東ニ於テハ彭玉〓ト云大将砲台等ヲ築キ軍備ヲ為ス由 此ノ彭玉〓ハ主ニ戦家ニシテ衣食ヲ飾ラズ極テ質朴ナル人也ト云 町田氏ハ小生等着セシ時ハ広東ニ行シ旨ニテ不在 二三日前帰館セラレシ故氏ノ話ハ実説ニ可仕候 先ハ安着御報迄 早々 頓首 父上様 下ノ父上様 叔父様 平信 清輝拝
詳細 - 黒田1884-3-21三月二十一日附 パリ発信 父宛 封書
三月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 寸紙拝呈仕候 益御清適奉大賀候 次ニ私二月十二日香港出航 海上至極平穏数所港ヲ経テ本月十五日無事マルセイユ港ニ着 同十八日同処発 気車ニテ同夜十一時半巴里府ニ安着仕候間御休神可被下候 兼而承リ候通リ当地ハ実ニ繁華ノ地ニシテ華美ナル家屋或ハ物品等不少候 学校モ公使館書記生宇川盛三郎ト云人ニ依頼致シ候ニ付御安心可被下候 此ノ宇川ト云人ハ井田氏ノ朋友由ニ御座候 先ハ安着之御報迄如此 余附後便 父上様 平信 清輝
詳細 - 黒田1884-3-21三月二十一日附 パリ発信 母(貞子)宛
三月二十一日附 パリ発信 母(貞子)宛 文して申上候 ますます御きげんよくいらせられ候はづめでたしめでたし わたくしもそのごはますますげんきで三月十八日よる十一じ半ようやくこのちにこぎつけました 御あんしんくださりまし これからどうちゆうのおはなしをいたしませう 二月十二日ほんこんをたちましておくしゆすといふふねにのりました このふねはよこはまからのりてきたふねよりよつぽどをゝきなふねにてこのふねでふらんすまできました こんどはまゑとはちがいふらんすにつくまでふねがちつともゆれずきぶんもよくめしもはじめからたべつゞけました さてふねではめしは一日ににどにてあさは九じはんばんは五じでしたからのちにははらがへつてめしのたびになんでもどつさりたもんした 十三日の日よりちんちんあつくなりだしました 十四日の日よりなつのふくをきました 十五日にさいごんといふところにつきました このところはおゝさかのかわぐちのやうにながくかはをのぼるところなり なをゑもんさんとばしやでこうゑんちやてらをけんぶつしました そのけんぶつのうちでいちばんめづらしかつたものはしろのきです そのしろのまわりわふたかゝへばかりではのながさが三げんか四けんばかり またこのこうゑんちにはおゝきなとらが二ひきかつてありました こんなものをけんぶつするときのあつさはたまらない あせがだらだらだらだらひはにしにしにしにしかさわもたずはちろさんのこまつた――でした このとちのやつはみちをあるきながらなにかむしやむしやむしやくつています それゆゑはわまつくろになりちようどはぐろをつけているようです このくつているものわきのはにしろきおしろいのようなものをぬりそれになにかのこなをつゝんでたべるのなり このところにはとまりそうなやどやがなかつたからふねにかゑりました かゑりがけにみづちややによりましたらかべやてんじやうにはやもりがべつたりついていました 十六日こゝよりしつぱん 十八日しんがぽるにちやくしました このところにつくと十二三より二十四五ぐらいのくろんぼがちいさきふねにのりてきました これはぜにをうみのなかになげるとすぐにとびこんでそのぜにをとるのです ちやうどゑのしまでゑびやあわびをとるのゝやうでした なをよんさんとりくにあがりこんやはほてるどぺいといふやどやにとまりました 十九日しつぱん 二十四日ころんぼといふところにちやく このところはおしやかのぼうずがうまれたところなり なをよんさんとばしやでてらけんぶつにいきました きいろいきものをきたぼうずが三にんばかりいました ほとけはちやうどにつぽんのにおなじもの これはこのとちのやつのすがたをつくりたるものです これからてらなんどにいくのはおやめなさい くろんぼをおがむとおなじです ろやるほてるといふやどやにとまり二十五日はまたばしやでほうぼうけんぶつしましたげな このとちのやつはおとこがべつこうのくしをさしております このくにはべつこうとぞうげのさいくものがたくさんあります こんにちしつぱん 三月三日あでんにちやく こんにちはおせくではしぐちどんのはつびなじ よのおきやくさまにおぢやつただろうとなをよんさんとおわさをしました しかしこのところはなにごともなし なをよんさんとまたばしやでけんぶつにでかけたり こゝであかいしやつぽをかいましてこれからふねのなかでしじゆうかぶつておりました こんなふうのしやぽです〔図〕 このあでんにてはらくだにものをうせたりくるまをひかせたりしております またまちをとうるとやぎがたくさんおります またたべものなどのあるみせにははいがぶんぶんぶんじつにきたなし ばしやでとうるとばしやのなかまでもはいがとんできます まことにはいのをゝきところです このところはあつきところであめがいちねんに十四五たびぐらいふるところできもなし それゆゑやまのしたにおゝきないけのようなみづためが十一あります これはあまみづをためておくところです 今日しつぱん 八日すゑすにちやく こゝにはただちよつととまつたばかりであがることはできず これからはかはのようなせまきところをゆくのです こゝはもとはとうれなかつたのをひとがほつてじようきせんがとうれるようにしたところです そのかわりにむしのはうようにしづかにゆくのです そうしてむかうからふねがくるとこつちのふねはとめるのです ふねがいきするときにはどつちのふねかいつぽのほうはとめていつぽのふねをとうらせます そうしてよるはいかずにいすめりやというところにふねをよせました つくとすぐになをよんさんとあがつてみました 九日あさはやくこのところをしつぱんしました 十一じ十五ふんまへひとつのふねといきすりました このところはせまきところですからふねがいきするときにはいつでもりようほうのふねからみんなみてとうります すぐそばをとうりますからかをがよくみゑます こんどのふねもとうるときにはわたしはかとうのかんばんのたるのうへにのりてみていましたらにつぽんのひとがにさんにんみゑたり これはぶんぞうさんがをりはせぬかとあかめをひつぱりいつせうけんめてにみていましたけれどもみゑませんでした とうりすぎてからなをよんさんとあひましたところぶんぞうさんがあのふねにいていろいろはなしをしたときゝましてざんねんせんばん しかしまういきすぎたからどうすることもできずなをよんさんとまへのひにはなしをしてこんなせまきところでぶんぞうさんのふねといきあつたらよかろうといつていましたらこんにちいきすりました しかしあわれず ざんねんざんねんざんねんざんねん こんばんつくところはぽるとさいどといふところにてぶんぞうさんのふねがこんばんつくところはいすめりやといふところです ゆゑにそんなにとふきところではありませんからなをよんさんとこじようきせんをかりてぶんぞうさんにあひにいこうとはなしをしてはやくこのふねがとまればよいよいよいとおもつて一日くらしさてついてみたらこんや十一じにしつぱんのよしにてじかんがすくなくいくことはできませんでした まことにざんねんざんねんざんねんざんねんしかたなし これは九日の事なり 十三日いたりやといふくにのねぶるといふところにつきました こゝにはあがることはできずきれいなところのようにみゑていました なぜあがれないかといへバいまより九かつきまへにこれらびようがはやつたからといふわけだそうです こんばんこゝをしつぱんしまして十五日あさ十一じ十ぷんまへふらんすのうちのまるせいゆといふみなとのまへにあるちいさいしまにつきたり すぐにまるせいゆにふねをつけないのはやつぱりまへのこれらのわけさ このしまに一日おりました 十六日あさ九じ十五ふんすぎまるせいゆといふところにつきました こゝでふねはおしまい ほてるどぷちるぶるといふやどやにやどをしましてなをよんさんとばしやではうばうけんぶつしました このところはたいへんきれいなところでいゑはたいていろくかいかしちかいでわたしたちがとまつたところはごかいめのところでしたをとうるひとをみるとむしがぞやぞやぞやぞやはつているやうでありました またまちをあるくひとがあんまりたくさんいてあるくのにじやまになります ひとがみんなおしやれにておかしきことです 十八日八じ二十ぷんのきしやでぱりすといふみやこにいきました このところはにつぽんのとうきやうのようなところでせかいだいいちのきれいなところです こゝにわたくしがおるところです この日はしゆうじつきしやにてよる十一じはんぱりすにつきました ごあんしんくださりまし ついてからまだたくさんかいてあげることがありますけれどもこんにち四じはんにゆびんがでるそうですからまづこれだけにしておきます いそいでかきましたからわからないところがあるかもしれません なをよんさんがうちにくわしきてがみにやくしよのようがあつてかきださないからおまんさあがはしぐちどんにおぢやつたときこのてがみにかいてあつたことをはなしをしてくださるようにゆつてあげてくれとぎやることでござりましたよ みんなげんきでしよ あざぶのめらのこはいかヾ よつぽどおゝきくなりましたろ こんどはいそいでみんなにはてがみをあげだしませんからよろしくよろしくよろしく せんちゆうでみんなのしやしんをだしてみましたら新二郎やおゑいさんたちのしやしんがないようですがもしやまだもらわずにきわしなかつたかとかんがへます もしのこしてありましたらおくりてください わたくしのしやしんはあとでうつしてあげます あねさんによろしくよろしくよろしくよろしくあねさんのおしやしんももつてきませんでした どうかあねさんにくださるようゆつてください うちからもつてでたくすのきのぼくとうはふねにのりましたときになをよんさんのかばんのうへにのせておきましたらそれぎりなくなりました わたくしもほんこんまではよつてしまいへやよりそとにはでませんでしたからたづねることもせずほんこんについたときにおもひだしさがしましたけれどもなし しかたなし とけいをみましたら三じはんですからまちつとかきませう さてこのちにちやくしひとばんこうしくわんにとまりよくじつ十九日ぶんぞうさんのふたばんかみばんおとまりなさつたやどやにやどをとりました またこうしくわんのうがわといふひとがせわをしてくれましてよきがつこがあるそうです 二三日のうちにがつこにはゑりますけれどもまだしれません このちでおかしきものはひとのしやれなり くわしきことわぶんぞうさんにおきゝなさい このしやれにはなをよんさんもびつくりなされたよふすなり わたくしわみんながきれいなようすをしてわたしにみせるとおもつてせけんをあるきます いゑはきれいまちはきれいひとのようすわきれい よきけんぶつなり こつちのやつはせうぐわつきぶんとみへ申候 まいにちこうゑんちなどにあそびにばしやにてゆくものがたいへんおゝし さくじつなをよんさんとこうゑんちけんぶつにいきました ずいぶんきれい こつちのかしばしやのかぢとりはみんなれいふくのたかぼうし むまはりつぱなこゑたむまにてにつぽんのようなやせごろのちいさきむまはみろとおもつてもなし ばしやは一じかんが四十銭 てつどうばしややのりあいばしやはどこまでゆいても六銭なり このふたつばしやにはにかいができております にかいのほうにのるとやすし さくばんなをよんさんとうんどうにでかけなをよんさんはうがわといふひとのところにゆきわたくしはけいこのためひとりでむちやくちやむちやくちやむちゃくちやにまちをあるきしやまぐれそれよりのりやいばしやにのりしにばしやのかねをとるやつがわたしになんとかいゝましたけれどもわからずたいがいどこでおりるかといふことだろふとさつしましたけれどどこというあてがわかりませんでしたからだまつていました そうするとわきやまへにのつているやつがはなしをしてわらつております それからばしやがとまるとすぐにおりどこだかしれないけれどあとのみちにかへりむちやくちやにゆきしにとうとうもんのところにでたり このもんといふはおゝきなもんでこれからまちのすぢがみんなわかれております このもんのうへにさくじつなおよんさんとのぼりてみました たいへんたかし くるくるまがつたはしごだんをのもるのです もんのうへにはむまとひとのおゝきなつくりものがのせてあります こんにちはあられがふりました とけいがやつぱりしじゆとまつてこまります へいきちおぢはやつぱりをつとめのごべんきようでしよ よろしく まづこれだけ ほかのことはあとより めで度かしく 母上様 無事 新太郎 したのおとつつあんやおぢさんにはべつにてがみはあげだしませんからおまへさまよりくわしくおはなしを なさりてくださりまし
詳細 - 黒田1884-4-3四月三日附 パリ発信 父宛 封書
四月三日附 パリ発信 父宛 封書 一書拝呈仕候 益御清適奉大賀候 私儀至極元気ニ御座候間乍憚御放念可被下候 扨て直右エ門様及ヒ宇川氏ノ御世話ヲ以テ去月二十三日ブルバルバチニヨルト云町ナルゴツファルト云人ノ私塾ニ入塾仕候ニ付御安心被下度候 此ノ学校ハ日本ノ小学校ノ如キ者ニシテ五六歳ノ小児ヨリ十八九歳二十歳位迄ノ生徒都合二百五十人位有之其中過半ハ入塾生ナリ 私ハ言語ノ能ク通ズル様ニナル迄ハ特別ニ朝八時頃より一時間計修業仕其他ハ衆生徒ト同室ニテ勉強仕候 食事ハ教師及教師ノ妻等ト共ニシ寝室ハ三畳位ノ小室ヲ借受テ万事不自由無之候 食料及授業料ハ百五十フランクニ相定メ申候 此百五十フラントハ我三十円位ニシテ一フランハ即我二十銭ニ御座候 規則ハ余程厳ニシテ日曜日ノ外ハ外出ヲ許サズ 日本ノ塾ノ如キ自由ナルモノニハ無之候 木曜日ハ午後休業ニ御座候得共証人ノ証書ナケレバ外出ハ許サズ候 今ノ様子ニテハ余程宜敷様ニ御座候 昨日ヨリ久松ト云人入塾致候 此人ハ華族ニシテ家ハ東京浜町ニ有之三ヶ月計前ニ此ノ地ニ来リシ由ニ御座候 先ハ入塾之御報迄 草々如此御座候 頓首 父上様 清輝拝 二白 此ノ地ハ時候至テ不順ニシテ到着セシ頃ハ余程暖気ナリシガ入塾後四五日ハ曇天ノミニテ寒気甚ダシク此頃ハ亦少シク暖気ニ御座候
詳細 - 黒田1884-4-18四月十八日附 パリ発信 母宛 封書
四月十八日附 パリ発信 母宛 封書 一ふで申上度候 父上様御はじめおまへさまそのほかあざぶのあねさん したの父上様 おぢ様そのほかみなみなさまますますおげんきのはず御めでたくぞんじあげまいらせそうろ わたくしはいつもげんきにてべんきよういたしをり申候あいだ御あんしんくだされたくそろ にちようにはいつでもなをよんさんのところにいきましてごちそうになります このごろはやすみでござりますけれどもたゞのひにはでることはできずやつぱりにちようともくようびのふつかだけそとにでられますけれどももくようびはひるからさきだけです あしたはもくようびですからそとにでます せいとがこのがつこにのこつておるのはわづか十二三にんばかりでみんなほかのやつはやすみですからうちのあるやつはうちにかえつてしまいさみしきことです このがつこにはいりてからにちようにそとにでゝなをよんさんやほかのにつぽんじんにあうのがなによりのたのしみでござります(中略) さる五日にひぽどろむといふきよくばのみせものをみにいきました このひぽどろむはよるするみせものでござりますからこのひになをよんさんがわざわざがつこにむかいにきてくださいましてみにいきました なおよんさんがきてだしてくれとぎやればいつでもでることができます さていつてみるとたいへんきれいなおゝきなところでがすとうやでんきとうがたくさんついていてひるのようにあかるくいえはまるくつくりてありそのまんなかでいろいろなげいをいたします またひだりのほうのたかきところではづんづんづんおんがくをしております またそのするげいは(かるわざ)これはをとこがふたりおんながふたりでてきましていたします またおんながさんにんにてへんなくるまにてうまかけをします まけたやつはすぐにひつこみかつたやつばかりのこりておりまたひとまわりいたします そのくるまはこんなかつこのくるまでむかしのろまといふところのくるまのかつこだそうです このくるまにのつているおんなおきものなどはずいぶんきれいです こちらのかるわざをすつやつはまるではだかでをるようなふうにみえます それははだかでをるのではなくからだにぴつちやりとくついたきものをきてをるのです そうしてからだのところだけもようがかいてあります またしたにはあみがはりてあります かるわざがすみしときにはうえのたかきところからあみのうえにおちてきます こんなかるわざやうまかけはあんまりかんしんでもありませんがうまやいぬがするげいはじつにかんしんです〔図〕 またおとこがさんにんにてうまかけをします それはひとりにてふたつのうまのうえにまたがりひとつのあしをひとつのうまのうえにのせひとつのあしをもうひとつのうまのうえにのせたちながらけいばをします ずいぶんかんしん またあしのながいやつがさんにんでてきていろいろなあしのげいをします あしをかてつぽのやつのあたまのうえからくるくるくるとまわしたり またばんこのようなものをもつてきてそのうえをとびこしてさきにいつてべつくわつてしまいます そんなことをいくどもします たいへんおもしろい しんじろやなおぼんにみせてやりたきものなり(中略) 十三日 このひはにちようにていつしよにをるひさまつさんといふひとゝいつしよにでかけましてかぢみるどらびいにゆといふまちなるかとうさんといふひとのところにいきました このかとうさんというひとはひさまつさんのおなじくにのひとでひさまつさんがこのひとゝいつしよにこのちにきたそうです このかとうさんのきんじよにいちがいのせんせいまつなみさんがおります さてかとうさんのところにいきましたらまつなみさんもこのところにちようどきていておいでなされいゝあんばいでした このひはひるめしをこゝでごちそうになりそれからひさまつさん かとうさん まつなみさんほかにあめりかじんがひとりほかにごせだといふにつぽんじんがひとりとつがうにつぽんじんがごにんせいようじんがひとりにてぼわどぶろにゆにふねこぎにいきました このぼわどぶろゆというはこうえんちにしてたいへんひろきところにしてこのにはのなかにおゝきないけがありそのいけにばつてらがたくさんあり一じかん四十銭にてかします このふねにのりあすびました こんにちはにつぽんじんが五にんですからまるでにつぽんにかへつたようでした これからまたこのこうえんちのうちにあるけだものをみせるところにいきました こゝにはぞうがにひきそのほからくだやうまのからだにしまのあるやつやじらふといふたいへんたけのたかきうまのやうなけだものにてけのいろはかのしゝのけのようなものなり このけだものやそのほかいろいろなけだものがおります このところのうちにむろのようないへがひとつあります そのいへはやねもがらすばりにてなかにはつゝじのはななどがきれいにさいております〔図〕 わたくしたちがまちをあるくとみんなおんなやおとこがしなじんだしなじんだしなじんだしなじんだといゝます そうしてみんながみます おもしろいことです こんどはまずつこれだけにいたしませう めでたかしく 母上様 新太郎 いちがいのせんせいまつなみさんよりよろしく申上候 みなさまによろしくよろしく(後略)
詳細 - 黒田1884-5-22五月二十二日 パリ発信 母宛 日記
五月二十二日 パリ発信 母宛 日記 五月十六日附 金曜 朝ハ曇リ少シ寒シ 午後ハ一層暖也 諸事如前日 午後三時頃日本ヘ日記及ヒ母上様ニ奉ル書状一通出シタリ 夜靖献遺言ヲ読ム 十時頃寝 十七日 土曜 本日ハ昨日ヨリモアツキ様也 午後五時過直衛門ニ面ス 本日ヨリ夜ノ稽古六時半ヨリ始マリ九時ニ終ル事ニ改マリタリ 但シ今迄ハ六時ヨリ八時半迄ナリシ 帰室後久松氏ニ日本ノ鹿児島発生ノ琵琶会等ノ話ヲ為シ聞セタリ 而独リ日本ノ朋友ノ事等ヲ思ヒ出シ夢中ニナリ話ヲ為シ不知不識時ヲ過シタリ 十時半過入床ス 十八日 曇時々雨 午前例の八時半頃ヨリ外出ス 久松氏ト門外ニテ別レ橋口氏ニ行ク 十時頃より直衛門及ヒ松方氏ト公使館ニ行ク 少シク止まり夫レヨリ直衛門ト米国人計リ行ク米国ノ寺ニ行ク 十二時過キ寺ヲ出デ直衛門ノ下宿屋ニ帰ル 時ニ十二時半頃也 午後三時過ヨリ直衛門及松方氏ト遊歩ニ行ク トロカデロノ少シ先キノ処ヨリ川蒸気ニ乗シ先日直衛門ト行キシポンドジュルトカ云処ニ到ル 上陸シテ三人共ニ少シク運動シテ一ノカツフエニ寄リレモンヲ飲ミ又川蒸気ニ乗シテ帰ル 此ノ地ハ巴里府ノ城壁ノ処ニテ場処ハ至テ小ナル処ナレバ来遊者甚ダ多シ 併シ大抵ハ巴里ノ市中ノ開化人デ無ク少シ田舎風ノ人車也 故ニ美服等ヲ着シ居ルモノ少シ 夜食後又三人ニテ下宿屋ヲ出デ余ハアルクドトリヨンフノ処ニテ別レ帰塾セリ 時ニ九時半頃也 直ニ寝ス 十九日 月 雨 今日ハ曇ニテ又少シク寒シ 朝ヨリ冬ノ上着ヲ着シ居リタリ 扨テ先日最早寒キ事ハ有ル間敷ト思ヒ冬服ヲ盡クカバンノ中ニ入レ夏服ノミヲ出シ居キタリシニ又今日ハ寒キニ依リ不得止又冬服ノ上着ヲ出シタリ 夜久松氏ト日本ノ話等ヲ為シ十時五分過入床 二十日 火 曇 本日モ気候ハ昨日ノ如シ 朝ヨリ今日モ冬ノ上着ヲ着シタリ 午前十一時頃教師ゴツファル君教場ニ来リ余及ヒ久松氏ヲ呼ビ別ノ一小教場ニ併ヒ到り素読及書キ取リヲ少シク為サシメタリ 是レ余輩ヲ試ミン也 夜帰室後当地ノ小学校生徒ノ風ヲ記シタリ 十時半頃入床 二十一日 水 晴 本日ハ又少シク暖也 午後例ノ素読ノ稽古無シ 其他無事 夜少シク靖献遺言ヲ読ミ後希臘語ノ文典ヲ読ミタリ 十一時寝 二十二日 木曜 本日ハ当地ノ祭日ノ由ニテ終日休業也 併シ朝ノ八時迄ノ稽古ハ有リタリ 朝食後即チ八時半頃ヨリ久松氏ト外出ス 共ニ吉村氏ノ下宿ニ到ル 幸在宅ニテ面会ス 此ノ吉村氏ニハ先般公使館の門ニテ始メテ面シ今度ニテ二度目也 時ニ九時半頃也 十分計ニシテ此ノ家ヲ出デ久松氏トジヤルダンチユルリー公園内ニテ別レ直衛門方ニ行キタリ 達セシ時ハ十時半頃也 已ニ而直衛門及松方氏ト公使館ニ行キタリ 公使館ニテハ今夜夕食ノ大御馳走ガ有ル由ニテ小使等客室ノ片附等ヲ為シ居リタリ 余本日始メテ公使館ノ客室ヲ見タリ 隨分美也 暫時ニシテ又三人共ニ下宿屋ニ帰リ食事ヲ為ス 而又三人共ニ同処ヲ出デ直衛門及松方氏ハ公使館ニ行カレ余ハ分レテ独リ画ノ見物ニ行キタリ 此ノ画トハ此頃画ノ共進会ノ如キモノ有リ其ノ見物也 画数甚ダ多クシテ美悪ヲ詳スルニ勝ヘズ 其内日本人ノ画ヲ一ツ見付ケタリ 是レハ日本人ガ画キシカ又ハ西洋人ガカキシカ知ラザレドモ日本ノ宮内省ノ女中ノ様子ニテ例ノ平タキ頭ニテ大礼服ニ木ノ扇子ヲ持チ座シ居ル処ノ風也 甚ダ良ナラズ 多分日本人ガ画キシナラン 立タル風ナラ座セシヨリ少シハ良カリシナラント想像セリ(余計ナ心配) 午後二時半同処ヲ出デ直衛門ノ下宿屋ニ帰ル 時二三時少シ過也 直衛門ハ留守ナレバ少シク室内ニテ休息シ同四時半ノ御出門ニテ五時無事平隱ニ御着校遊サレタリ 目出タシ 本日直衛門ニヅボン一枚貰ヒタリ 縱横ニ小ナル囲碁盤島の夏ズボン也 今夜例ノ夜ノ稽古有リ 併シ今日ハ六時ニ始マリ八時半ニ終ワリタリ 帰室後此ノ手紙ヲ記シタリ 今時計ヲ見タルニ十時十分過也 以上(以下次号) 今朝学校ヲ出ズル時夏服ヲ着シ上ニ外套ヲ着シ行キシニ思ヒノ外善キ天気ニ成リ甚ダアツクシテ汗迄出デタリ 夫レ故外套ハ直衛門処ニヌギテ置キ終日着セズ 帰塾の時モ手ニ持チテ帰リタリ 此ノ頃ハ午後八時頃ニ真黒ニ夜ガ入リマス 頓首再拝 乱筆御仁免度被下候 東京ニテ 母上様 無事 清輝拝 みなさまによろしく
詳細 - 黒田1884-7-10七月十日附 パリ発信 父宛 封書
七月十日附 パリ発信 父宛 封書 五月一日ノ御書状去月二十二日到来 早速拝読仕候処御地御尊公様御始め皆々様御揃益御清適之由大慶至極ニ奉存候 次ニ爰元ニ於テ橋口直右衛門様及小生ニモ不相変大元気ニテ毎日勉学罷在候間御休心可被下候 当地学校之儀ハ他物ノ華美柔弱トハ異リ規則等余程厳重ニシテ日曜日及木曜日ノ午後ノ外ハ外出ヲ許サズ 平常ハ朝六時ヨリ教場ニ入リ夜九時に寝室ニ帰ル事ニ御座候 其間午前八時より同半迄朝食及運動 同十一時半ヨリ一時迄午食及運動 午後二時半ヨリ三時迄運動 同五時ヨリ六時半迄夜食及運動 都合四時間ノ遊歩時間有之而巳ニテ其他ハ教場ヨリ出ルヲ得ズ 而小生等ハ未ダ衆生徒ト共ニ学ブ能ハザルニ依リ午後九時頃より十時頃迄一時間計リ別ニ授業致呉れ候 一週間ニ二回程生徒ト共ニ水練ノ稽古ニ罷越候 其場処ハ巴里府ノ外ニシテ此ノ学校ヨリ路程凡ソ一里計ノ処ニ御座候 御存之通此ノ巴里府地位ハ海岸ニハ無之候得共セイント申川此府ノ中央ヲ貫キ候故運輸便宜敷様ニ御座候 而此ノ川ニハ小ナル川蒸気常ニ往来シ殆ンド陸ノ鉄道馬車及ヒ乗リ合馬車ノ如クニ御座候 而其賃銭を馬車ノ如ク場処ノ遠近ヲ問ハズ一人分六銭ニ御座候 此ノ地ノ水練ハ日本ノ水練ノ如ク衣ヲ解キ直ニ水中ニ投ズル様ナ軽便ナルモノニ非ズ文明国ダケ万事面倒也 先ツ水練ヲ為サン欲セハ水練場ニ行キ銭ヲ払ヒテ水ニ入ル事也 其水練場トハ木製ノ家ニシテ其家屋中ニ水練場有リ 即チ此ノ家ハ川中ニ建築セシモノ也 而其水練場ハ長方形ニシテ一口ニ云ハヾ温泉湯屋ノ大ナル如キモノ也 此ノ地ノモノ之レヲ名ツケテ冷湯ト云 此ノ冷湯ヲ分チテ大小二トス 其大ト云モノハ深キ処ニシテ小ト云ウモノハ浅キ方也 浅深トモ水底ハ皆板敷也 水練場ノ周囲ニ幅一間計リナル長キ板敷アリ 而其先キニ小ナル室並列セリ 此ノ室内ニテ衣ヲ解キ或ハ着スル処也 又西洋褌ヲ着セシマヽニテ入水スル事也 水練場ノ有様ハ右ノ如クニ御座候 小生等ノ行ク処モ同断 右ニモ申上候通リ当地小学校ハ余程厳ナルモノニ御座候得共尚万事注意致シ勉学可仕候ニ付御休神度被下候 昨日より私及ビ久松氏ノ両人ニテ剣術ノ教師ヲ雇ヒ撃剣ノ稽古ヲ相始メ申候 此ノ地ノ撃剣ハ我国ノ撃剣トハ異リ只衝クノミニテ御座候 併シ身体ノ為メニハ余程宜敷ト申事ニ御座候 此ノ華美柔弱ノ世界ニテハ撃剣ニテモ学ヒ少シク気分モ養成セザレバ自然女子ノ如クニ相成可申候ト愚考仕候 此ノ撃剣ハ一週間ニ三回即チ月水金曜日ニ午後七時半頃ヨリ八時半頃迄一時間計リ夜食後ノ運動旁此ノ校内ニテ相学ビ申候 而謝金ハ一ヶ月分一人ニ付二十仏即チ我四円ニ御座候 熱海より御帰京後御尊体益御壮健ニ被為入候由雀躍此事ニ御座候 併シ盛夏之砌折角御保養専一ニ奉存候 七丁目叔父様御家族及平田氏御家内等御上京被成候由此頃ハ余程御煩ハ敷事と奉推察候 私儀両三年モ此ノ地ニ住居セシ後ハ幾分カ我国ノ事情ニモ遠サカル可クト相考ヘ申居候 依テ若シ善キ新聞紙ニテモ有之候ハヽ御送リ被下度奉願上候 併シ書生ノ身ニ新聞紙ハ不善ザル場合モ可有之候ニ付若シ悪キト御考被有候得ば御取リ止メ被下度候 此ノ新聞紙一件ハ敢テ至急ヲ要スル事ニハ無御座候 先ハ御左右伺旁御返詞迄如此御座候 頓首再拝 父上様 平信 清輝拝 二白 井田 荒木氏等ヘハ可然御伝聞奉願候
詳細 - 黒田1884-8-8八月八日附 パリ発信 母宛 封書
八月八日附 パリ発信 母宛 封書 一ふで申上度候 あつさにもおよわりなくますますます御げんきのはづおんめでたくぞんじあげまいらせそろ みなみなさまもおげんきでしよ めでたし わたくしはいつもげんきにておりますからごあんしんくださいまし さてさる五日よりがつこうはなつのやすみになりましたからすぐにそのひにがつこうからでましてなをよんさんのやどやにまいりました そうして一つのちいさなへやをかりましてたゞいまこゝにおります このげしゆくやはろうるびろんと申まちにてござそろ そうしていへはろくかいです にわもございます なをよんさんのへやは五かいめです わたくしのへやはいちばんうへですけれどもそんなにいへのたかさはたかくはございません いまこのやどやににつぽんじんが四にんおります そんしてめしばかりたべにくるひとがひとりです つがうにつぽんじんが五にんです なをよんさんにわたくしそれからまつがたさん さかもとさんです それからうがわさんといふひとがめしばかりたべにまいります にぎやかなことです このごろはまたあつくなりました きのうなどはあついことあついことあせがでどうしでした けふもあついあついあつい ことしのあつさはめずらしいと申ことです いつもこんなにあついことはないそうです これらはどこかにあつたそうですけれどもだんだんへつてしまうそうです めでたし その御方にてはいかゞですか ことしはあんまりありますまい めでたし わたくしはへやのなかにおるときにはじゆうふくのようなあつくるしいめんどくさいものはきません につぽんのひとへを一まいきております よいことよいことよいこと めしをくひにしたにおりるときばかりじゆうふくをきてゆきます こんなかつてなことはがつこうではできません がつこうではたゞねるまへばかりにつぽんのきものをきておりました やつぱりまいにちまいにちまいにちおきゆうをすへますからごあんしんくださいましよ わたしはこのごろはすこしはこのちになれてまいりましたけれどもはなしはまだできません むずかしいものです かいものなどはいつでもひとりでいたします こんどはたいへんみじかいてがみですけれどもまづこれだけにいたしておきます どうかみなみなさまによろしく あねさんによろしく おゑいさんにべつにあげなければならないはずですけれどもなんにもかくことがありません いくつてがみをかいてもおなじことばかりですよ めで度かしく 母上様 新太郎 おからでがだいいちです おしんぱいはおやめです よこやまやたかねがたびたびてがみもやつてくれます からうちにあすびにきたときにはごちそうをしてやつてくださいまし てがみのうらがきはいつでもわたくしがかきます
詳細 - 黒田1884-8-14八月一四日附 パリ発信 母宛 封書
八月一四日附 パリ発信 母宛 封書 六月二十日の御てがみさる十日にあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたしましたところみなみなさまおんかはりなくおげんきのよしなによりけつこうでございます こゝもとにてはなをえもんさんもわたくしもしごくのげんきにてたつしやなことたつしやなことたつしやなことですからごあんしんくださいまし けつしておしんぱいなどはめしもすな ばかげたことですよ このまへのびんに申てあげましたとうりなをえもんさんとおなじげしくやにげしくをいたしております そうしてごぜんも一しよにたべます よるなんどうんどうにも一しよにでます またしじゆうなをよんさんのへやにいつておりましてはなしなどをいたしております よいことよいこと このげしくやはたいへんよいものをたべさします につぽんでゆえばせいようけんのごちそうとでもいふようなあんばいです あさはうしのちゝを一がうばかりのみます それとぱんをたべます おひるのごぜんはたまごににくがふたしなばかりそれからあとでくだものをたべます ばんのめしにはそつぷにむろん このむろんというのはかぼちやのとうりのかたちにてあぢはちよつとまくわうりのあぢです それからほかにうしかひつじのにくがふたしなばかり それから一ばんあとでおくわしとくだものです このくだものはすもゝかぶどうです まいにちまいにちまいにちこんなけつこうなごちそうをたべております いつもいつもくわしきにつきをおんおくりくださいましてまことにまことにありがたくおんれい申あげます さてそのおにつきのうちにしたのおぢさんがおいでなさいましたときぎゆうのごちそうをめしもしたよしがかいてございましたからなをよんさんとはなしをしておゝわらいをいたしました こちらではぎゆうやひつじなんどをまいにちまいにちまいにちたべております こちらはまいにちまいにちごちそうですよ あなたのおてがみやにつきをよむときにはにつぽんにおるようです せんだつておくつてくださいましたにつきのうちにしばやまどんのおばあさんとおつよさんとおいでなさいましたよし おつよさんとはかごしまであそんだことをおぼへておりますけれどもかをはわすれてしまいました まういまはおゝきなおばさんになつておいでなさるでしようとかんがへております ともだちのやつたちがやつぱりときどきあすびにまいりますよしまことによいことでございます とちぎけんのけいぶさん うらはのぴいこおぢのところからたびたびおたよりがございますよし またおてがみをおだしなさるときにはよろしくゆつてやつてくださいまし かごしまのめがねのおぢさんやしらをぢいちさんもおげんきでございませう おついでのときよろしく おきゆうはやつぱりまいにちまいにちまいにちすゑますからごあんしんくださいまし ことしはとちがかわつておりますからかつけはでないだろうとおもつております こちらにすこしこれらがあつたそうですけれどももうすつかりきえてしまつたそうです そのおんちはいかゞですか ことしはこれらはあんまりありますまい よこはまのすこしさきによいおんせんがございますよしまことにちかくてよいことです もしそこのおんせんがわるかつたときにはすこしとをくつてもよいところにあすびながらおいでなさいましよ こちらのやつはみんななつのあいだはぜひいなかにあすびにまいります これはからだのためにもなりまたおもしろいからさ こちらはてつどうがたいへんべんりですからひやくりやにひやくりぐらいのところまでも一にちぐらいにてちよつとゆくことができます べんりべんり したのちゝうえさまからおてがみをくださいましたけれどもべつにかいてあげることはございませんからおへんじはあげません どうかおまへさまよりおてがみのおれいとおへんじをべつにあげないことゝをよろしく申上げてくださいまし おぢさんにもよろしく ひろしさんにもよろしく こちらにやまもとといふあぶらゑをかくひとがをります このひとはじぶんでうちをかりておりましてげぢよを一ぴきつかつておりまいにちまいにちにつぽんのめしをたきにつぽんのりようりをこしらへてたべておるそうです そうしてだれでもにつぽんのめしがたべたいときにはそこのうちにたべにゆきます わたくしもなをえもんさんとあしたばんめしをたべにゆくはづです こんにちたべるつもりでそのやまもとのうちにゆきましたけれどもこんにちはあいにくそのひとがよそにごちそによばれてゆくといふことにてとうとうこんにちはこめのめしをくひだしませんでした けれどもめようにちはきつとくひだしませう まづこんどはこれぎり めでたくかしく 母上様 無事 清輝 なによりおげんきがだいいちです いつも申上ることですけれどもしんぱいほどばかなものはありませんよ おやめおやめおやめおやめになさいまし あざぶにてはぶんぞうさんもあねさんもおしげぼうずもおげんきのはずめでたし あねさん やどのしんるいのまえへださんががつこうをそつぎようなさいましたよし なをよんさんからききました まういまはりつぱなおやくにんさまでしよう めでたし もしおあいなさいましたときにはよろしくよろしく おゑいさんにはまたこんどもあげだしません まことにもうしわけなし どうかおまへさまよりよろしくぎやつたもんせ
詳細 - 黒田1884-8-28八月二十八日附 パリ発信 父宛 封書
八月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 七月十一日附之貴書本日相届キ謹而拝誦仕候処御尊公様御始御一同御揃御壮康之良奉大賀候 お当地橋口氏及小生至極元気ニテ小生ハ当分学校休業中故橋口氏方ヘ同居罷在候 左様御休意可被下候 此ノ下宿屋ニハ日本人都合四人下宿致居候間朝夕相集ひ談話等致し殆ント日本ニ居ル心持ニ御座候 即チ其四人ハ橋口氏 松方正作氏 海軍中尉坂本氏及ヒ小生ニ御座候 松方氏ハ大蔵卿二男ニテ当地公使館書記生ニ御座候 先般郵便切手一件申上候処早速伊地知氏へ御願ひ被下好都合ニテ已ニ相調ひ後便より御送与被下との旨拝承仕奉万謝候 不日相達可申と相待チ申候 御地ニテハ今般華族増加シ又公侯伯子男ノ五等ニ分たれ候由 付テハ樺山氏ニモ小華族連中ニ御加入之由慶賀至極ニ奉存候 右華族令ニ付テ御地諸新聞之説ハ如何ニ御座候や承リ度候 諸華族中疏球王ニノミ未ダ爵位ノ下賜無之ハ如何ナル都合ノモノニ御座候や奉伺居候 平河町相撲興行中ハ棧敷御貸切御見物被遊候由定而よき御楽ミニ相成申候事ト奉推察候 当地此頃ハ時候最早少々涼しく相成申候 当地ハ文明第一の地ニハ御座候得共随分野蛮ノ野郎モ多ク有之小生等市街ヲ歩スレバ支那人ト呼ヒ相顧ミ申候 日本人ト呼フ者ハ甚ダ稀ニシテ百人中一人モ無之程ニ御座候 清仏戦争ハ御当地如何評番致シ候や 去る二十三日頃当地在留支那公使ハ已ニ当地ヲ引キ払ヒ而戦争モ已ニ相始マリ清兵少シク敗北セシ由承リ候 先ハ御返詞旁御左右伺迄如此御座候 草早 頓首 父上様 清輝拝 御自愛専一ニ奉存候 七丁目父上様及叔父様ヘ可然御伝言奉願上候 再伸 本日清仏戦争之確報ヲ橋口氏より承り申候 其報ノ略曰ク 去る二十三日仏兵清ノ軍艦九艭及小船十二艭ヲ撃破シタリ 而清兵死者一千人手負三千人 仏兵死者七人手負三十七人也ト云
詳細 - 黒田1884-8-28八月二十八日附 パリ発信 母宛 封書
八月二十八日附 パリ発信 母宛 封書 七月八日七月十二日つけのおてがみと六月二十一日より七月十一日まてのくわしきおんにつきこんにちあいとどきありがたくさつそくはいけんいたしましたところおまへさまおんはじめみなみなさまおんかわりなくおたつしやのよしおんめでたくぞんじあげます さてこないだのびんにゆうびんきつてをおくりくださいましともうしてあげましたらすぐにいぢちきぞうさんにおたのみくださいましたよし そうしてよいあんばいによくそろつてございましたよしまことによいあんばいでした そうしてこのゆうびんきつてをわざわざ八郎さんがよこはままでとりにいつてくださいましてこのつぎのびんからおくつてくださいますよし もうたゞいまごろはぎちぎちぎちとどこかこゝのちかくにきておるでしようとおもいます ひらかわてんじんのなかのすもうにたびたびおけんぶつにおいでなさいましたよしおもしろいことでございましたろう しばやよりすもうのほうがおもしろいでしよう なみだをださないぶんがとくですよ おてがみのうちにかみなりもぢしんもこわくないとかいておやりなさいましたけれどもこればつかりはどうもほんとらしくございません どうもやつぱいせんこにひをつけるやらまたろうそくにあかりをおつけなさるだろうとかんがへます こないだはなをよんさんとやまもとといふあぶらゑのえかきさんのうちににつぽんのごぜんをたべにいきました うまかつたことうまかつたことうまかつたことうまかつたことうまかつたことおさしみににざかなそれからゆはしのやいたのをたべました めしはならちやぢやはんのやうなのでろくはいくひました このやまもとさんといふひとはかをからようすからおかじまさんによくにております そうしておもしろいことをしじゆうしやべつております そうしておまけにたかちようしにてしやべります ひとをわらはせてばつかりおります このひとはじぶんでうちをかりておりましてばゞのおさんとんをひとりつかつております そうしてまいにちまいばんこめのめしをたきにつぽんのおかずをこしらへたべておるそうです につぽんのめしがたべたいときにはみんなこのやまもとさんのうちにいつてたべます やまもとさんはたいへんおりようちがじようずです まるでりようりやのとうりです わたくしのたんじようゆわいにびやひきがありましたよしまことによいことでございました しんじろやきよし なをぼんなどがこゑをかけただろうとをもいます ともだちのやつたちもあいかわらずときどきまいりますよしよいことでございます さる二十四日にはなをよんさんとさんくるうといふきんじよのいなかにあすびにまいりました そのさんくるうまではかはのこじようきがかよいますからそれにのりてまいりました ちようどそこのおまつりでめずらしいものをみました このゑのようなあんばいにふねがにそうございましてそのふねのあたまのほうに一だんたかくたつておるところがございます そのたかいところに十五六のおとこがうすいぢばん一まいにさるまたのやうなみじかきもゝひきをはきにけんばかりのながきぼうをもちてたつております そうしてりようほうからそのふねがだんだんよつてきてちやうどそのふねがゆきするときながきぼうのさきがひとりのやつにあたればふねのすゝむいきおいでおつしやりますからおされたやつはみづのなかにどんぶりことおつこちてしまいそのおちたやつはすぐにおよいであがつてしまいます りようほうのふねがりようほうからよつてくるあいだはたいこたゝきがたいこをたゝいております そうしてしようぶがついたときにがけのうえにおるらつぱふきがらつぱをふきます このらつぱはたゞのへいたいのふくらつぱではございません がくたいのふくようならつぱです〔図〕 こちらはこのごろはもうすこしはすゞしくなりました よいことです おきゆうはやつぱりおこたらずすゑておりますから御あんしんくださいまし あなたさまのとうぢゆきはどうもとじまらないとみゑますね このごろはすもうがたいへんはやりますからうちの新二郎 きよし なをぼんなどもすもうとりをするでしよう すもうとりなんどがうちにもまいりましたよし そのときは八らうさんが一しようけんめいですもうとりのごあいてをなさいましたろうとおもいます いかゞでしたか このごろはやつぱりまいにちはたけにごしつきんでございませう よろしくゆつてくださいまし あざぶのあねおばさんとおしげぼんはいかゞですか いつもおげんき めでたし おしげぼんはまだあるくようになりませんか ことばはどうです したのまさひこはどうです このごろはもうことばもわかるでしよう わたくしはこちらではあかんぼどうぜん こまつたものです うちのおしやちまめはだんだんたつしやにしやべるでしよう なまいきにすこしはしやれたりなんかするでしようとおもいます まずこんどはこれぎり めでたかしく 母上様 ぶじ 新太郎拝 まいどながらしんぱいはおやめのほうがだい一です おからだをせつかくせつかくげんきにしておいでなさいまし わたくしはいつもげんきですからおしんぱいにはおよびませんよ みなみなさまよろしく かきそへ申上候 こんどこそおてがみをおゑいさんにもあげませうとおもつておりましたけれどもまたまたとじまりませんでした どうかあなたさまよりよろしくゆつてくださいまし
詳細 - 黒田1884-9-26九月二十六日附 パリ発信 母宛 封書
九月二十六日附 パリ発信 母宛 封書 八月十五日の御てがみ九月十九日あいとどき 八月九日の御てがみ につき せんだいはぎのほんさんさつ よこもじのほんさんさつ あざぶのおしげぼんのしやしん九月二十二日あいとゞき まことにまことにうれしく(中略)こちらにてはなをえもんさんもわたしもしごくしごくげんきにてくらしおりますからまづまづごあんしんくださいまし こないだももうしあげましたとうりことしはところがかわりましたせいかいつものかつけせんせいはおいでがなくまことにしやわせいたし候 けれどもおきゆうはやつぱりすゑますからあんしんくださいまし(中略)こちらにおるとにつぽんのこめのめしがくいたいことです またたべようとおもへばいつでもたべられます べんりなことです なぜならやまもとといふあぶらゑをかくひとはげぢよをひとりつかつておりまして三どともこめのめしをたいてたべております そのやまもとさんのうちにゆけばいつでもたべられますけれどもたゞひとつたらないものがございます それはみそです みそのおめつけがたべたいものです こちらはまいにちまいにちせいようりようりのごちそうです こめのめしやみそのおめうつけなんどはそこあたいにでることもできません(中略) さくじつひるすぎにぢようだんに父上様のおしやしんをみてゑをかきました すこしもにてはおりませんけれどもまんざらほかのひとゝもみゑませんからおなぐさみのためにおくります わたくしがたつときにちいさなゑのぐいれをもつてはゆくまいとおもつたのをあなたさまがたのしみになるからもつてゆけとぎやつたゆへもつてきましたのがいまはよきたのしみになります わたくしはすこしくゑをかくもんですからゑのけいこをしたらよかろうとすゝめるひとなどがございます(後略) 日本東京 母上様 ぶじ 仏巴里より 清輝拝
詳細 - 黒田1884-10-3十月三日附 パリ発信 父宛 封書
十月三日附 パリ発信 父宛 封書 寸紙拝呈仕候 秋冷相催候処御全家御揃御安康奉大賀候 次ニ私事至極 壮健去る一日旧ノ小学校ニ入塾仕勉強罷在候間御休意可被下候 今度ハ特 別ニ稽古せず衆生ト共ニ通常の課目を修業仕心得ニ御座候 先は用事迄 草々 頓首 父上様 清輝 御自愛専一ニ奉祈候〔図〕
詳細 - 黒田1884-10-16十月十六日附 パリ発信 父宛 封書
十月十六日附 パリ発信 父宛 封書 八月二十二日附之御尊簡並ニ大岡政談 後藤半四郎伝三冊 天一坊伝三冊本月十二日慥ニ相届謹而拝受仕候 右厚く御礼申上候 お同地御尊公様御始母上様其他皆々様御揃御安康之由奉大賀候 次ニ当地私儀至極壮健ニて勉学罷在候間乍憚御放念可被下候 先鞭より新聞一件申上候処早速御承諾被成下難有奉万謝候 金百六十二円私学資金として御送り被下候旨御書状ヲ以テ承知致居候処其後七月三十一日仏貨ニテ六百九十八仏 公使館橋口仕方ヘ慥ニ到着セシ旨橋口氏より承り候 右ハ其節御礼旁一寸申上候ニ付已ニ御承知之事と奉存侯 今度之御尊簡中金百三十二円仏貨ニテ七百仏御送りくだされし旨有之候 然ルニ当地到着セシモノハ六百九十八仏ニ御座候 右ハ如何ナル都合ニテ如此差異生ゼシヤ存じ不申候得共定而相場変換之都合ニ依ルモノト奉存候 右ハ僅カ二仏ノ差異ニテ多額ノ金子ニ無之候得共一寸為念申上置候 荒木氏ハ英公使川瀬氏赴任之砌随行ニて自費洋行御企被成候由九月末頃已ニ出発相成候ハヾ只今頃ハ最早洋中ノ事ト遠察罷在候 いつれ此ノ巴里ヲ通リ英国ノ方ヘ赴かる可く左候得共不日荒木氏ヘハ面会シ可得ト屈指相待申居候 清仏葛藤一件モ其後絶而評判ヲ不承候処此頃仏軍少シク勝利ヲ得シ由両三日前ノ新聞ニ仏兵三千ノ清兵ヲ斬リシトノ事有之シ由承リ申候 松波氏モ至極壮健ニテ赴任致し被居候間御休神可被下候 小生久松氏ト木曜日等休業之折松波氏ノ下宿屋ニ会シ仏書ノ教授ヲ受ケ申居候 当地別ニ珍事無御座候 閑暇ノ折ハ大岡仁政録ヲ読ミ相楽み申候 先ハ御礼旁御返事迄如此御座候 頓首 十月十六日夜認 父上様 清輝拝 二白 御自愛専一ニ奉存候 此頃当地気候寒気相催毎日曇天ノミニ御座候 冬時ハ好天気ハ甚ダ少キ由承リ申候
詳細 - 黒田1884-11-13十一月十三日附 パリ発信 父宛 封書
十一月十三日附 パリ発信 父宛 封書 荒木氏便よりの貴書去る九日拝受早速拝見仕候処お同地御一同御揃御安康之由大慶至極奉存候 当地橋口氏及私不相変壮健ニテ毎日勉学罷在候間御休神可被下候 九月十五日御地暴風雨にて潰屋死傷人等も多少有之候由 併シ親類一同御無事之段先大幸と奉存候 去三日ハ天長節ニ付先鞭デ申上候通リ公使館ニテ夜会有之依テ私も夜食後より久松氏ト公使館ヘ参リ候 公使館ノ門上ニハ日輪ノ形ヲ瓦斯灯ヲ以テ作リ又皇国ノ旗ト仏国ノ旗ヲ立テ加之日本ノ提灯ヲ数十個横ニ掛ケタリ 其提灯ハ日本ニテ夏時用ユル処ノ惰円形ニシテ画有ルモノ也 来会者ハ都合四十人計リ 大倉喜八郎ト申者モ来会致居候 公使蜂須賀氏ハ小礼服ニ立派ナル勲章ヲ付ケ橋口氏 松方氏等いづれも小礼服 其他陸軍少佐南田氏等数名同ジク小礼服 余ノ人ハ皆美ナル長キ服ヲ着セラレタリ 其中尤モ立派ナリシハ陸軍ノ原田氏ハ軍服ニ勲章ヲ付ケ海軍ノ坂本 伊藤ノ二氏ハ海軍ノ服ナリシ 公使館御雇ノ外国人コレシヤルトカ云者其妻及娘ノ二人ト共ニ来会シ公使ノ妻妾二人モ出席セラレタリ 私ハ日本ヲ出立仕候時着シ居候服ニテ出席致候 如此短衣之者ハ他ニハ無之只私ト佐藤ト申書生ノ二人ノミニテ有之候 会場ハ公使館ノ客座ニテ余程立派ナル処ニ御座候 菓子及果物ヲ少シク食イ又葡萄シャンパン酒等ヲ飲ミ又茶碗ニテソツプヲ吸ヒ後又豚肉及小ナル麺包等也 十二時頃衆人退会シタリ 今夜ハ久松氏ト加藤氏方ヘ到リ加藤氏ノ一床中ニ三人寝シタリ 其翌日橋口氏方ヘ到りし処田代清定氏同夜立発帰朝セラルヽ旨承幸ヒ暇乞ヲ為し橋口氏の証書ヲ持テ帰校仕候 天長節前一日即チ本月二日日曜日ニテ午前例之通り八時半頃より外出仕久松氏ト加藤氏方ヘ到リ同処ニて食事シ午後少シク読書シ後近処ナルヲデヲン茶店ニ到リ申候 是レ当日ハ二時より同処ニ会シ先便で一寸申上候処ノ会ノ事ヲ議セシガ為メ也 当日来会者十三名 原田 加藤 松波 久松 藤島 工藤 藤枝 中西 吉村 郷田 花島 五姓田等也 今度ノ会ニ付テハ皆同意ニシテ毎月第二第四日曜日午後第三時ヲデヲン茶店ニ会ス可キ事但シ不参之者ハ其旨会場迄報道ス可キ事ト相談定マリ申候 去九日も日曜日を久松氏ト松波氏方ヘ行キ後加藤氏之下宿所ニ到リタリ 食事後読書ヲ為シタリ 終リテ久松氏ト湯屋ニ行キ而私ハ別レテ乗合馬車ニ乗シ橋口氏方ヘ向ケ出掛ケタリ パレロハイヤルト申処ニテ乗リ替ル為メ馬車ヨリ降リ直衛門方ヘ行ク馬車ヲ待チタリシニ三輌来リシト雖皆人員満数ニテ不得乗 依テ不得止歩シテ直衛門方ヘ到リシニ折悪ク直衛門ハ不在 松方氏斗在宅也 依而松方氏方ニ於テ暫時談話致居候処英公使川瀬氏到着せられし由承り早速荒木氏ノ事ヲ相尋ね申候処同氏モ同しく到着一同ホテルダルブト云旅店ヘ止宿之由故ニ直ニ右旅店ヘ罷越し面会仕種々御直左右等承リ大ニ安心仕候 談話中食事時ニ相成荒木氏ノ御馳走ニテ於別室両人而已ニテ食事仕候 食後九時頃迄談話仕遂ニ再会ヲ約シ帰室仕候 是より先キ荒木氏ハ私ヲ尋ね橋口氏方迄度々御光来被下候由 又包物モ直衛門方ヘ御届ケ被下候 私帰路又直衛門方ヘ立寄リ包物ヲ開キ申候処ナリ 御書状并ニ種々結構ナル御品等沢山ニテ誠ニ難有奉存候 荒木氏ハ去る七日夜中当地着十日午前九時頃独逸国ヘ向ケ発セラルヽ旨承リ候 定而安着被致候事と推察罷在候 当地此頃ハ寒気相催候得共未だ降霜ハ無之候 併し朝夕ハ霧ふり申候 朝ハ八時頃迄午後ハ三時過より教場ニハ瓦斯ニ火ヲ点ジ申候 是レ三時過より夜ト為ルニハ無之曇天ノ如ク少シク暗ク相成故ニ御座候 当時お同地ハ非常ニ独逸流行之由 又今年ノ洋行人ノ多キニハ実ニ驚入申候 独逸国ニハ正ニ百人計リノ書生在留之由承リ候 此頃ハ加藤ト申人ノ方ニテ久松氏ト毎木日ノ両日シヤルヽ十二世記(仏史)ヲ訳読仕候 始メ両三回ハ松波氏方ニテ読ミ申候得共今後ハ右加藤氏方ニテ読書仕候 松波氏ノ下宿屋ト加藤氏ノ宿所ノ間ハ半町モ無ノ甚ダ近キ処ニ御座候間時々面会仕候 先ハ御機嫌伺旁御礼迄如此御座候 頓首 十一月十三日夜認 父上様 清輝 二白 御自愛専一ニ奉存候 打田氏ハ時々御光来被下候由御序ノ折可然御伝言奉願上候
詳細 - 黒田1885-1-8一月八日附 パリ発信 母宛 封書
一月八日附 パリ発信 母宛 封書 十一月十四日の御てがみ一月の一日になをよんさんのところにてうけとり十一月二十一日の御てがみ四日にこうしくわんにてにてうけとりました いつもかわらずみなみなさまおげんきのよしなによりなによりけつこう ねんとうにはわたくしがちよつとおねんとうの御しゆうぎにおみまいかたがたあがりましたからべつにあなたさまにも又父上様にもしんるいのおかたさまがたにもだれにもあげませんでした どうかあのつらにてねんとうのてがみはおかんべんをねがいますよ 父上様やしたの父上様 おぢさん おゑいさんたちにどうかそうゆつてくださいまし さてそちらにてはみなさまよいおとしをおとりなさいましたでしよう おめでたし こちらにてはどうもとしをとることはできませんでした なぜならおぞうにもまたもちもなんにもありませんからさ そちらではいつものとうりおゝきないもにおやしでよいおとしをおとりなさいましたでしよう こちらにはいものおゝきなのなんどはないかはりにはかまをはきもんつきのはをりにきぬのきものそれからあたらしいげたをはき一しようけんめいにしやれこんでゑねんとうごあんすなんどゝゆつてしんるいのおかたがたのおうちをまわつてあるくことがないだけはまことにけつこうなことでした しようぐわつにはくれの三十一日よりおやすみにて四日のにちようまでつがう五日のおやすみでした せけんはきたいなものにてこちらでもおせいぼやおとしだまをやることがたいへんはやりますよ そうしてくれにはやつぱりにつぽんのとをりおゝきなまちのりようがわにこやがけをしていちをだしましておせいぼにやるいろいろなきれいなものをうつておりました またひとがたくさんたくさん おしようがつのがんじつにはなをよんさんたちはたいれいふくにてきれいなことでした またせけんをあるくひとたちもみんなきれいなようすをしてあるいておりました またきれいなばしやがたくさんたくさん につぽんではばしやにのつてあるくひとはちよくにんさまでなくてはありませんけれどもこちらのやつはかねもちですからあらびやうまのにひきうまにていばつてあるきます じんりきしやとはたいへんなちがひですよ あねさんたちはことしはほくかいどうのさむいところにてどんなおとしをおとりなさいましたでしようか あちらはとうきようより一そうひどいところだそうですからおゝきなおいもはとてもむずかしいとぞんじます けれどもしんるいのおきやくさまなんどがないだけにまずらくなことでしたろうとぞんじます おついでのときよろしくゆつてあげてくださいまし ねんとうのてがみはあげませんとかいてあげてくださいまし ぐわんじつのばんにおきゆうのすゑはじめをいたしましたからごあんしんくださいまし そちらにてはまいあさおひばつをとかなんだとかいうものをおあげなさるよしまことにばかげたことゝぞんじます 新二郎かなをぼんでもたべたときにはよろしゆうございますけれどももしだれもたべなかつたときにはまことにばかげたむだなことゝぞんじます そんなきゆうへいなことはおやめになさいまし おしんぱいをなさるとおなじことにてなにのやくにもたちませんよ やまもとといふゑかきがまいにちにつぽんのめしをくつているといふはすこしもふしぎなことではなくかねさいあればどんなことでもできます なぜならこちらにはこめもありまたしようゆうもありますけれどもないものはみそです これだけはこまつたものです またやまもとゝいふひとはりようりがたいへんじようずにてじぶんでいろいろなおりようりをこしらへてたべておるのです そのつかつておるげぢよはせいようじんのばゞです そのやつがこめぐらいはよくたきます なつのやすみのうちにかいておくつてあげました父上さまの御かをのゑをがくになさいましたよし がくはりつぱでもゑはあんまり父上様にはにておりませんでしようよ けれどもうちにかけてあればまさかほかのひとゝもみへますまいよ さくねんのくれにまたひとつおゝきなかみにおんなのかをゝいとつかきました それはあんまりおゝきうございますからおくつてはあげません それでそのゑを三十一日のひにかいてしまいそのひにすぐにんをよんさんのところにもつていしかしてかべにはりでさしておきました なをよんさんやほかのひとがほめました そのゑはすこしよくできました またこんどほかのゑをかきはじめました 一しゆうかんに三ど一じかんぐらいづゝかきます そちらにてはいつものとうりにくわじがまいばんありますよし またあかさかのくわじのときにはうちのにかいからよくみえましたよしおゝせのとうりわたくしがをつたならばすぐにみにゆくのでしたけれどもおしいことをいたしました こちらはけつしてくわじはありません たまにはあるかもしれませんけれどもはんしよはならずちつともしれません またいえがきではなくいしですからやけても1つか2つのへやだけでおしまいです またたくさんやけても一けんやけです わたしはまだみません またくわじのあつたことをきゝません このごろはすこしさむいことにてまいにちまいにちくもりでんきばかりです やつぱりこないだごろのてんきのようです このころはゆきはふりません しようぐわつの四日にひさまつとふねこぎをせんとぼわどぶろにゆというこうえんちにゆきましたらひろいいけにすつかりこうりがはつてをりなかなかふねをこぐどころではなくいけのふちのほうのあついところのうへにのつてこうりすべりのまねをしておるひとなどがありました またこのいけのこうりがたいへんあつくなるとはんぞううちのほりでせいようじんがするようにこうりすべりをするそうです そんなになつたらわたしもすべりかたのけいこにゆこうかとおもいはやくこうりがあつくなればよいとまいにちまつております こんにちはもくようびにてひるごはおやすみですからそとにでられるのですけれどもくもつてはおるしまたこんにちはよほどさむし それゆへひつこんでおりこんなにながいてがみをかきました なかにかきおとしやまたわからないところがたくさんありませうからよくよくおかんがへなさつてよんでくださいまし わたくしがてがみをかくとみんながめづらしがつてみておりますけれどもばかとかいてもくそやろうとかいてもわかりませんからなかなかべんりですよ まづこんどはこれだけにいたします せつかくせつかくおからだをおたいせつになさいましよ わたしはいつもげんきですからおしんぱいは一せつめしもすな めでたく申上候 母上様 ぶじ 清輝 おゑいさんがすこしおめがわるいとかいふことがおてがみのうちにございましたがどんなごあんばいですか やつぱりつうれいのはやりめですか なにしろせつかくおだいじになさるべしとぞんじます こんどはべつにてがみはあげませんからおまんさあよりよかごつぎやつたもんせ みなみなさまによろしくよろしく したの父上様よりわたくしにてがみをくださいましたけれどもわたくしはべつにおへんじをあげません なぜならなんにもかくことはなくまたあなたさまおひとりにあぐればこちらでわたしがげんきでべんきようしておるといふことはよくしれますからさ それゆへにべつにしたの父上様にはおへんじをあげませんからどうかおまんさあからよかごつおでんごんをねがいますよ 東京ニテ 母上様 巴里 清輝
詳細 - 黒田1885-2-6二月六日附 パリ発信 父宛 封書
二月六日附 パリ発信 父宛 封書 一書拝呈仕候 暖気相催候処御全家御一同様御揃御壮康之筈大慶奉存候 降而私儀不相変小学校中ニ勉学罷在候間御放念可被下候 光陰如矢已ニ満一年ニ相成候得共思ひの外語学之上達セサルニハ実ニ閉口此事ニ御座候 併し此頃ハ少しく欧洲之風ニ慣レシ心地仕候 来年よりは是非共専門学致し度ものと心算罷在候 橋口氏も御壮健ニて御勤務被遊候間左様御承知被下度候 又同氏は当公使館会計主任トカラ外務省より被仰付近頃余程事務御繁忙之由承候 独逸荒木氏方より一月中旬頃年始状到来 序之節御尊公様宜敷申上呉れとの伝言ニ御座候 又一月三日ニハ独逸国ニテ日本留学生の新年宴会の催シ有リ 其節日本料理ニテ其跡ハ各自持ち寄りし物品ヲ以テ福引ヲ為し近年に無キ盛会也シ由 又新年宴会は今年ヲ以テ初会トスルトノ趣申来リ候 当地ニハ少シモ珍事無御座候 気候は此ノ一週間位前より一変シ当時少シク暖気ニ御座候 又此ノ頃ハ先キ頃ニ比スレバ天気よき方ニ御座候 御催促申上候ニハ無御座候得共良キ新聞紙有之候ハヾ御送り被下度偏ニ奉願上候 決シテ急ク訳ニハ無御座候間左様御承知被下度候 先便より写真差上可申旨母上様迄申上置候得共未ダ出来不申依テ次便より御送リ可申上候 先は御左右伺迄 草々 不具 父上様 平信 清輝拝
詳細 - 黒田1885-3-6三月六日附 パリ発信 母宛 封書
三月六日附 パリ発信 母宛 封書 一ふでしめしまいらせ候 おいおいとあたたかになりますがみなみなさまいつもおかわりなく御たつしやのはづとぞんじ上ます こちらではなをよんさんもわたしもまことにまことにげんきなことにてりつぱなみやこのなかにねたりおきたりくつたりべんきようしたりしておりますからどうぞどうぞ御あんしんくださいまし なんだとかかんだとかゆつておるうちにもうはや一ねんになつてしまいました まことにはやいことです ほくかいどうのほうからもたびたびごそうがありますよし またみなさんおげんきとの事なによりなによりけつこうなことです こないだひさまつさんのくわぞくさんもこのがつこうをでてしまいましたからこのごろはわたしはひとりになりかへつてよいことです またわたしはなをよんさんのおかげでときときりつぱなくるまになをよんさんやまつがたさんとのつてうんどうをいたします きのうはもくようびにておやすみでしたからこうしくわんにまいりました そうしてなをよんさん まつかたさんそれからかいぐんのはちださんといふひとたちとりつぱなちようどありすがわさんのばしやのやうなばしやにのりぼわどぶろにゆというこうゑんちにまいりました まことにおもしろいことでした こんなばしやにのつてこんなあんばいにていきました 〔図〕なをよんさんたちはみんなたかしやつぽをしじゆうかぶつておいでなさいます こちらのやつはみんなたいていたかしやつぽをかぶつております こちらはこんなばしやわはいてすてるほどたくさんあります けれどもにつぽんにてはさんぎかみやさんたちでなければもちますまいよ よきびんのときすみとまきがみをおくつてくださいまし おねがい申上ます けつしていそぐことではございませんよ なくならないまへにゆつてあげておきます こんどはこれぎりにいたします めでたしめでたしめでたしめでたし おからだをおだいじになさいまし おしぱいはおやめおやめおやめ めで度しめで度し 母上様 ぶじ 清輝拝
詳細 - 黒田1885-3-27三月二十七日附 パリ発信 母宛 封書
三月二十七日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)さてそちらにてはおいおいとおはなみのじせつになるとかんがへますがせつぺせけんにでておあるきなさいまし うちにひつこんでばかりおいでなさつておちやとおたばこばかりではどうもあんまりよろしくありますまいとかんがへます こんなあんばいにばしやはばしやひとはひとにてそれぞれみんなせけんにでてあるきますよ それですからげんきげんき こんなばしやがぞろぞろとつながつてとうりますからもしにつぽんのようにひとだのうまだの一しよにおなじみちをあつくときにはけがにんのありどうしでしよう〔図〕 こんどはあまりみじかうございますけれどもこれぎりにいたします めでたしかしく 母上様 ぶじ 清輝
詳細 - 黒田1885-5-14五月十四日附 パリ発信 母宛 封書
五月十四日附 パリ発信 母宛 封書 三月二十六日の御てがみさる十日たしかにあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたしました みなみなさま御かわりなくいつもいつも御げんきとのことまことにまことに御めでたくぞんじあげまいらせ候 こちらにてもなをよんさんもわたくしもまことにげんきにてくらしをり候あいだどうぞどうぞ御あんしんくださいまし さてそちらにてはしじゆうはだもちがふじゆんなよしにてはるになつてからもゆきなんどがふりましたよしさすがふゆずきのあなたさまでもさぞおこまりでしたろう しかしもうじこうもよくなりましたでしようとぞんじます せけんなんどにたびたびでておあるきなさつてせつぺおげんにしておいでなさいまし またすこしするとあなたの御きらひななつがまいります まだこちらではさほどあたゝかくなりませんからやつぱりわたいれをきております わたいれとはふゆのきものゝことですよ こんにちはもくようびにてひるごはおやすみです ところがおまつりにてあさよりおやすみになりました それゆへそとはあすびにでようかとおもいましたけれどもあめはふるしまたかぜもすこしふきあまりあたゝかくございませんからまづとりやめあさのうちはゑをかいてたのしみおひるからこのてがみをかきはじめました ほくかいどうでもみなさんおげんきとのことおんめでたくぞんじあげます わたしがこつちにきてからもうまる一ねんのすこしうへになりますからそちらでもよほどかわつたものがあるでしようとかんがへます だい一しんじろう なをぼんはじめこどものやつたちがたいへんかわつたでしようとぞんじます わたしもすこしはかわつたでしようよ こちらではなんにもめづらしいことはございませんがまいねんあるゑのはくらんくわいがことしももうはじまりました わたしはまだみにゆきません こんどのにちようかいつかにいつてみようとおもいます にちようはたゞみせるそうですがかねては一ふらん二十銭だそうです さてこのはくらんくわいはしやんぜりぜと申まちにてなをよんさんのところよりぢきそばです それでも四五ちようはあるでしよう こんにちはひまですからなにかかいてあげませうとおもいますけれどもなんにもおもいだしませんからまづこれぎりにいたしておきます これからあねさんにあげるてがみをかきます あなたさまがおてがみをおだしなさるときに一しよにおくつてくださいまし まづこれぎり めで度しめで度し 母上様 ぶじ 新太郎拝 せつかく御からだをだいじになさいまし みなみなさまによろしく おゑいさんにはひさしくごぶさたです このつぎのびんよりてがみをあげようとおもつておりますからおまんさあからよかごつぎやつたもんせ
詳細 - 黒田1885-5-29五月二十九日附 パリ発信 母宛 封書
五月二十九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)さくじつはすぎといふこちらにこどものときからきておつてにつぽんのことばははなすことができますけれどもかくことやよむことはちつともできないひとがわたしのがつこうにきてくれましたから一しよにでかけましておびといふやつのうちにいきました このおびさんのうちでながくおもしろいはなしおしてあすんでおりのちに三人でぼわどぶろうにゆといふいつもいくこうゑんちにゆきましてこのこうゑんちのなかのいけでふねにのりふねこぎをしてあすびました まことにまことにおもしろいことです ふねのいけのなかのしまにつけましてそのしまにあがりみづぢややにてさとうみづのようなあまいみづをにみまたさんどいつちといふぱんのなかにぶたのしほづけがはいつておるたいへんうまいものをたべました このしまにしばらくきゆうそくをしてからまたふねにのりしまを一まわりくるりとまわりそうしてかへりました わたしはがつこうのめしどきになりそうでしたからすぎとおびのふたりにわかれおゝいそぎにてがつこうにかへりました かへりついたときにはぢばんはみづのなかにつきこんだようにあせだらけになりました こんなにあつければせけんにでたたんびにはあせだらけになりますけれどもうちにかへればすぐぢばんをぬいであせをふきほかのかわいたぢばんをきなおしますからあせをかいたおとでずつとしてかぜをひくなんどということはございません たいへんわたしはようじんをいたしますからどうぞどうぞ御あんしんくださいまし このごろはまたむしがでてきましてまことにへいこうへいこう まいばんくらわれます このまへのびんから申上候びくとるゆうごといふこちらのなだかいうたよみが二十二日にとうとうくたばつたと申事にてらいげつの一日にそうしきをするそうです そのひにはがつこうはおやすみになるそうです こんどはこれぎり せつかく御げんきになさいましよ みなみなさまによろしく めで度し 母上様 ぶじ 新太郎
詳細 - 黒田1885-7-3七月三日附 パリ発信 父宛 封書
七月三日附 パリ発信 父宛 封書 一書拝呈仕候 先以御尊公様御始メ御全家御揃御安康之筈奉賀候 私事至極く元気ニテ矢張旧塾中ニ勉学罷在候間御休神可被下候 已ニ七月ニ相成候ニ付御地ハ定而暑気甚敷候半と奉遠察候 当地ハ御存之通リ気候不順之地ニテ少シモ定規ナク昨日は酷暑今日は冷気ト云都合ニ御座候間大ニしのぎよき事ニ御座候 私事先日より仏語傍らてん語を相始メ申候 右らてん語は仏語の根源にして大に必要なるものに御座候 就中法律を学ぶには此のらてん語至而要用なりと申事に御座候 当地普通ノ学術ハ勿論語学ハ此ノラテン語ギリシヤ語ヲ始メトシ英独其他ノ国語中ノ一語等ニテ普通学ノ卒業モ容易ノ事ニハ無御座候 此頃ハ暑中休ミ已ニ近キ処コノ学校ニテ入校卒業等ノ試験有之様子ニ御座候 我小学ニテハ毎週ノ試験ノ外日本諸小ノ中学校ノ如ク大試験杯ト云如キ者ハ無之候 前ニ述べシ普通学ノ卒業試験ハ今月ノ中旬ニ御座候 我小学校よりも数名出掛ルト云事ニ御座候 私ハ乍残念未ダ其群ニ入ル事不能 右ノ試験ヲ受ケルニハ少クモ尚二年位ハ費サヾル可からずト存候 先ハ御機嫌伺旁 早々 頓首 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1885-7-15七月十五日附 パリ発信 父宛 封書
七月十五日附 パリ発信 父宛 封書 任幸便寸楮拝呈仕候 酷暑之候と相成申候処御尊公様御始御一同御揃御安康之筈大慶奉存候 陳者橋口直右衛門様御事当春より少々御病気にて御引籠勝ニ被為入候処今般医師之勧めに依り御帰朝被遊候 当地ノ景況私壮健ノ状等委細御聞取可被下候 私写真御送り申上度存候得共何分至急之事ニテ日数不足乍不本意取止メ申候 橋口氏御帰朝相成候とも当地在勤書記生松方正作氏 私ノ身上ニ付テハ万事世話被成下候積に御座候間少しも御懸念被下間敷候 本年一月より之日記及ヒ拙画両三葉御慰ミノ為メ御送り申し候 画は児供等へ御分与被下度奉願上候 先は幸便之節迄 草々 頓首 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1885-7-24七月二十四日附 パリ発信 父宛 封書
七月二十四日附 パリ発信 父宛 封書 五月二十八日附之尊書昨日相届き謹而拝誦仕候処悪病流行後御尊公様御始メ皆々様益御壮康之由大慶此事ニ奉存候 爰許私事大元気ニテ不相語学勉強罷在候故御休神可被下候 橋口氏御出発後ハ当地モ余程淋シク相成□(原文不明)モ松方氏ト私ノ二人ノミニ相成申候 併シ私ノ事ハ万端松方氏御深切ニ世話被相下候故少しも御懸念被下間敷相願上候 去る十九日ハ橋口氏御出発第一番目ノ日曜日ニテ松方氏ニ伴ハレクールブボワト申処ニ行キ大ニ散鬱仕候 此クールブボワト申ハ巴里府郊外ニシテ日本東京ニテ云ハバ千住宿トデモ云可キ処ニ御座候 来ル二十六日ノ日曜ニハ松方氏ト共ニ近在鉄道ニテ二時間位ノ処ニ行ク積ニ御座候 但シ藤氏ト云当地留学ノ画人景色ヲ写サンガ為メ同行スル由ニ御座候 銀貨二百五十仏之為換券慥ニ相届奉拝受候 右ハ昨二十三日公使館松方氏ヘ持参仕金子受領方依頼仕候御休神可被下候 書籍三冊モ御書状ト共ニ相達シ申候御礼申上候 先便ヨリ一寸申上候宗教ニ付テノ一件御一覧被下候由又右ニ付テ御教誨被下候趣委細拝承仕候 暑中休暇モ昨年ノ如ク本八月四五日頃ヨリ始マリ二ヶ月間之由ニ御座候 昨年ノ休暇中ハ橋口氏方ヘ同居致して居候得共今年ハ左様なる訳ニハ不行候 併シ虫ニ食ワレナガラ無課業ノ小学中ニ閑居致し居ルモ金五十仏之謝礼金ハ例之如ク払ワザルヲ得ズ依而松方氏之御世話ニ依リ今年ハ巴里近在ヘ避暑トシテ二ヶ月間ダケ罷越積ニ略決定仕候 先ハ御機嫌伺傍御返事迄 草々 頓首 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1885-7-31七月三十一日附 パリ発信 母宛 封書
七月三十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)みようにちからこのがつこうをでましてこうしくわんのきんじよのやどやにとまりにゆくつもりです おやすみぢゆうはそのやどやにおるつもりですからさようごあんしんくださいまし このやどやはこつちについたころなをよんさんと一しよにおつたりつぱなやどやです 一日ぶん六ふらんのやくそくでとまることにきめました 六ふらんはにつぽんのかねで一ゑん二十銭ぐらいです につぽんのかんがへではたいへんたかいものですけれどもこちらでこのぐらいのやどだいはつうれいよりしたではございますけれどもうへではございません なをよんさんにおきゝなさればよくよくわかります このやどやなんどのことはみんなまつがたさんのおせわです ぜんたいこのやどやはわたしなんどのやうなこぞうがおるようなところではありませんけれどもなつのことにてやどをするひとはすくなくそれゆへ一日ぶん八ふらんといふのをまつがたさんがようやく六ふらんにまけさしてくださいましてとうとうこゝにおることになりましたよ(後略)
詳細 - 黒田1885-8-21八月二十一日付 パリ発信 父宛 封書
八月二十一日付 パリ発信 父宛 封書 去る十五日大迫新八郎様当府へ御安着被遊候 当時ハ私も休業中ニて自由ノ身ニ御座候ニ付停車場迄御出迎ひとして罷越候 右大迫氏便より御送り被下候紙包六個慥ニ拝受奉万謝候 又御直左右等承リ大ニ安心仕候 先日学校教師ゴツフアルより左之通申来り候 家屋讓与之期限ニ際シ不得止事故ニ依リ最早改約シ難キ場合ニ立至リ申候 又他ノ一方ニ付テハ我塾ヲ他所ニ移ス可キ宜キ方法ヲ得ズ 幸拙者朋友ジヨフレト申者我諸生ヲ引受ルト申事ニ御座候間右ジヨフレ塾ヘ我塾ヲ合併致ス事ニ今般決定仕候 右ノ次第ニ付ゴツフアル塾ハ来十月限リニ閉校仕候云々(下略) 右之通ニ御座候間此ノ休暇後ハ是非共他ノ学校ヘ行かざるを得ざる次第ニ相成申候 併シ万事松方正作氏ヘ依頼致し候ニ付御休意可被下候 今夏ハ箱根湯治御企テ被遊候由定而よき御保養被遊候半と奉遠察候 当地ニテ少シ金ノ有ル者ハ暑中ハ必ズ田舍遊ひニ出掛ル由ニ御座候 就中上等社会ノ者ハ是非共旅行致す由ニ候 又時ニ空気ヲ易ルハ健康上ニ必要ナルモノ承リ申居候 我下宿屋ニ日本人私トモ合セテ三人ニ相成近頃ハ余程にぎやかなる事ニ御座候 其日本人ハ松方巌君及公使附ノ書記生宮川氏也 此ノ宮川氏ハ橋口氏ノあと役として英国より転任セラレシ人也 先日は松方正作氏并に藤氏と云画人と共に近在に行かんと約束致し置きしに藤氏用事有りとて遂ニ仕遂ゲズ 残念 明日ハ又日本人三四人連れニて気車ニ乗シ近在ニ行ク積リニ約束致し置キ候 遠行程愉快ナル者ハ無御座候 宮川氏より古今集をかり読み候処郭公の声を聞て故郷を思ふといふ歌多く有之候付不図一首を考出し候 御一覧被下度候 郭公なかぬ都にすみぬれと恋しきものは故郷のそら 父上様 清輝拝 御自愛専要ニ奉祈候 七丁目父上様より御送り被下候品物も慥に拝納仕候間宜敷御礼奉願上候
詳細 - 黒田1885-8-28八月二十八日附 パリ発信 母宛 封書
八月二十八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)こないだこゝにおる日ぽんじんのともだちと四つたりづれでゑんそくをいたしましてまことにおもしろいことでした あさ八じにこうしくわんにみんなあつまりそれからじようきしやにのりじゆいやんじよいざすといふいなかにゆきました このところにはせいようじんのかねもちにやとわれておるにつぽんのだいくとうゑきやがおります わたしなんどがじようきしやからおりますと大くのげんぺいといふやつがむかいにきておりましたからすぐに一しよにそのひとのすまつておるやしきにゆきました さてそのやしきのもんはにつぽんづくりにてそれからなかにはいつてみるとたかいところのおかのうへにちややのやうなまことにしやれたにつぽんづくりのうちができておりました どうもにつぽんにかへつたようなこゝろもちがいたしました それからだいくだのうゑきやだのみんなかゝつてにつぽんりようりをこしらへしばのうへにけつとをひきみんないたぐらめをしてごぜんをたべました こん どのにつぽんりようりはなかなかしやれたものにてなすびのおこうこだのわかめとのりときうりとごたまぜにしたおすのものがでけるやらまたわかめとたまごのおすいものがでるやらしやもにねぎをいれてにるやらまるでにつぽんのとうりでした それからにつぽんのあさうらぞうりがありましたからくつをぬいでひさしぶりにはいてみました ゆびのまたがすこしいたくてへんなあんばいでした このあんばいぢやにほんへかへつたときにはげたははけますまい よるのめしにはごもくずしができましてまことにうまいことでした それからおとでうゑきやがにつぽんのふゑふきだしのはやしのまねをしましたからにつぽんのさんのうさまのおまつりかなんかをみるようでした めでたしめでたしめでたしかしこ 母上様 ぶじ 新太郎より せつかくあつさなんどにまけないように いばつておいでなさいまし みなさんによろしくよろしくよろしく したの父上様からなをよんさんへのおてがみはおくつてあげます こんどのてがみはあんまりながくむちやむちやくちやくちやですからよくかんがへてよんでくださいまし〔図 写生帖より〕
詳細 - 黒田1885-9-25九月二十五日附 パリ発信 父宛 封書
九月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 秋冷相催候処先以御尊公様御始メ御一同御揃御安康之筈奉賀候 次ニ私事大元気ニテ勉強致し居候間御休意可被下候 先便より御報申上候通此ノ暑中休み前迄居候ゴツフアル塾閉校後ハ未ダ入塾ス可キ好学校ヲ見付申ザス 又高キ下宿代ヲ払ヒ何時迄カ上等ノ下宿屋ニ居ル可キニ非ズト存ジ候故松方氏ニ相談之上加藤ト申当地留学ノ経済学諸生之世話ニテ同人ノ住居スルサンミシエルト申町内ナル一下宿屋中ノ一室ヲ借ル事ト決シ去ル十四日午前引キ移リ申候 学校探索中此ノ下宿屋ニ止宿之積ニ御座候 当地ノ旅店ノ有様ハ日本ノ旅店等トハ大ニ其風ヲ異ニシ只室ノミヲ貸ス処有リ 又其家ニテ食事ヲ為シ得ル所モ有リ 私ノ居ル所ハ只室ノミ貸スモノ故食事ノ時ハ他ノ旅店カ或ハ食事店ニ態々出掛ケザルヲ得ザル也(中略) 私ハ昼晩二度共加藤氏ト同シ処ニテ食事仕候 午食ハホテル・サン・シユルピースト申旅店ニ行キ申候 此ノ処ノ食事ハ前ニ記シタル一度分価幾何ト極リタル所ナリ 併シ他ノ食事店ニ比スレバ至テ廉価ナル者ナルニ依リ先ツ此ノ所ヲ昼食所ト相定メ申候(中略) 毎夜此ノ処ニテ食スル日本人都合五人ニテ甚ダ愉快ナル事也 此ノ五人ハ皆書生也 此ノ下宿屋ニ転居後教師ヲ雇ヒ毎日午後一時ヨリ三時迄二時間ヅヽ仏語并ニ羅甸語ノ稽古ヲ仕候 此ノ教師ハ先年橋口文蔵様当地御滞留中同人ヲ雇ヒ仏語ノ稽古ヲ為サレタル由ニテ文蔵様ヲヨク存居候 二時間ヲ三仏ト相定申候 如此安直ニテ教授スルモノハ他ニ無之由ニ御座候 先日中ハ英国公使館ノ書記生伊集院兼良君当府ニ滞在セラレシニ昨朝英国ヘ向ケ出発被致候 私ハ停車場迄見送り申候 又昨朝ハ日本より伏見宮一行到着セラレタル由承リ候 先日写シ申候写真御送り申上候間私壮健ノ状御一覧被下度候 六丁目并ニ新二郎方等ヘ各一葉ツヽ御分配被下度奉願上候 顔真卿書楷書手本一冊王義之筆書手本一冊郵便ヨリ御送リ被下度奉願上候 右ハ閑暇ノ折慰ノ為メ少シク習字センガ為メニ御座候 顔真卿の書は多宝塔とか申者神保町辺ニ沢山御座候 右ヲ御送リ被下候ハバ幸甚 尤目方重ク候ハバ表板ハ御取除ケ御送リ被下度候 先ハ転居一件御報申上度如此御座候 頓首 父上様 御自愛専要奉祈候 清輝拝
詳細 - 黒田1885-10-1十月一日附 パリ発信 父宛 封書
十月一日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)わたしはまだがつこうにはいりませんでやつぱりげしくやにをりまいにち二じかんだけせんせいがきてくれますからこのごろはちようどがつこうにをるときのようにいそがしいことです いまわたしがならつてをるせんせいはあるかんぼうといふひとにてぶんぞうさんをよくしつてをりしじゆうぶんぞうさんのうわさをいたします たいへんしんせつによくをそへてくれます さる二十七日はにちようびでしたからひさまつさん かとうさん くどうさん ふぢしまさんといふひとたちと五にんづれでゑんそくをいたしました まことにおもしろいことでした このぱりすのみやこはちようどとうきようのようなところにてまちのまんなかにひとつ大きなかわがながれております このかわのなをせいぬがわともうします このかわにはたくさんこじようきがございましてしじゆうたゑまなくかよつておりますからたいへんべんりです さてわたしなんどは五にんづれでこのこじようきにのりむうどんと申ところにゆきました このところはまづ東京にたとゑて申ましたならばたまがわのようなところにてぱりすのきんじよのちいさないなかです かわじようきがつくとすぐそのあがりくちにあるりようりやにはいりひるめしをたべましてそれからみんなであるきはじめました このむうどんには大きなもりがございます そのもりをとをりぬけてさきにゆくとべるさいゆと申まちにでます むうどんからこのべるさいゆまで三りのうへもあるでしよう ずいぶんとをいところです さてわたしなんどはむうどんのもりのなかにはいりましてあるきながらはなしをしてわらうやらまたくさのうへにねころぶやらしてそれからとうとうこのもりのなかをとうりぬけてべるさいゆのまちまでゆきこゝからきしやにのりぴーがらがらがらとぱりすにかへりました ちようどろくじはんごろでしたからすぐにめしやにゆきめしをたべました(後略) 母上様 清輝拝
詳細 - 黒田1885-10-14十月十四日附 パリ発信 父宛 封書
十月十四日附 パリ発信 父宛 封書 一筆啓上仕候 追日寒気相催候処御尊公様御始皆々様御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事至極壮健ニ而勉学罷在候間御放念可被下候 先般ゴツフアル塾閉校後松方氏ニモ依頼シテ可然学校ヲ相尋ね申候得共相応之学校見当リ不申 然ルニ暑中休暇モ已ニ相過キ諸小中学校之課業モ相始まり候事故一日モ早ク慥ナル学校ヘ入塾仕度依而今般松方氏之御世話ニテパツシート申処ノ中学校へ通学致す事ニ決定仕候 此ノパツシート申処ハ公使館ヨリ五六町程ノ処ニ御座候 此ノ中学校ノ官立ニシテ家ノ広大ナル事我日本ノ大学校ノ比ニハ無御座候 昨年中ハ当地留学閑院宮モ右中学校ヘ通学被遊候 昨日松方氏ト共ニ右中学ヘ罷越し校長ニ面会仕色々規則等承り第五級ヘ入ル事ヲ被許申候 通学生ノ月謝ハ一ヶ月分二十五仏我五円余位ニ御座候 校長ハ多ク日本人ヲ知リ居リ且ツ至極深切ラシキ人ニ御座候間甚ダ仕合セニ御座候 又松方氏ノ御世話ニテ公使館ヨリ三四町位トロカデロ町ト申処ニ一人ノ仏語教師ヲ見付ケ申候 同人ノ宅ヘ止宿シ家内ノ者ト共ニ食事ヲ為シ而毎日学校ヘ通ヒ又別ニ同家ニテ夜分ナド仏語ヲ勉強スル筈ニ相定メ申候 食事料室代授業料等合併ニテ一ヶ月三百五十仏ト申候ヲ二百仏ニねぎり付ヶ申候 万事松方氏ノ御影ニ御座候 右教師之家ハ夫婦 子ども及ビノルべージユトカノ旧海軍士官一人仏語稽古ノ為メ同居致し居ルトノ事ニ御座候 其海軍士官ハ五十歳ノ老人ナル由ニ御座候 私ハ近頃十五歳ト申居候 西洋人ノ中ニテハ至極相当ノ値ウチニ御座候 先ハ用事迄 草々 頓首 父上様 清輝拝 御自愛専要ニ奉祈候 来る十六日午前新教師方へ引移り其翌日より通学ヲ相始むる積ニ御座候 皆々様へ可然御伝声奉願上候
詳細 - 黒田1885-10-29十月二十九日附 パリ発信 父宛 封書
十月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 八月二十一日并ニ九月四日附ノ御尊書謹而拝誦仕候 於御地御尊公様御始メ皆々様御揃ヒ御堅固之由大慶此事ニ奉存候 橋口直右衛門様御事八月二十八日御安着直左右並ニ当地ノ情況等委細御聞取被下候由大ニ安心仕候 同氏ノ御病気御出発如何ト案し居申候処已ニ略平癒との事雀躍此事ニ御座候 次ニ私事至極壮健毎日中学校ヘ通学罷在候間御休神可被下候 此ノ中学校ハ今迄ノ私塾とハかわり規則余程厳格ニ御座候 課業ハ朝八時ニ始マリ十時ニ終リ午後ハ二時半ニ始マリ四時半迄ナリ 尤モ火土ノ二日ハ画学有之候間午後一時半ニ始マリ申候 此ノ画学ハ只線ヲ引クノミニシテ至而初歩之モノニ御座候 らてん語ハ略毎日ニテ此ノ中学ノ課業ハらてん語ノミナリト申テモ宜き程ニ御座候 私ハらてん語ハ夏休み前ニ始メタルノミニ御座候間已ニ一年間モ学ヒタル諸生と共ニ学フハ甚ダむつかしく平日ハ寸暇無御座候 又毎日木ノ二日ハ休業ニ御座候 毎火金ノ二日ハ英語ノ課一時間ヅヽ有之候 右ノ次第ニテ中学ニテハ仏語学ハ甚だ少ナキモノニ候 因而私ハ帰宅後即ち夜食後亭主ノ妻ヲ教師トシテ少シづヽ別に仏語を勉強罷在候 近頃ハ今迄通リノ金額ニテハとてもむつかしく毎月少シヅヽハ使ヒ込み申候間左様御承知被下度候 右使込と申は敢テ無益ニ浪費スルニハ無御座候 実際不得止次第ニ御座候 其故ハ寄宿料ト別課ノ高キトノ二点ニ御座候 此ノ別課ノミハ是非共定額ノ外ニ出テザルヲ得ザル一件ニ候 此ノ別課ハ只今ノ処ニテハ学ビ不申候処□□(原文不明)早クらてん語ノ上達ヲハカルニハ是非共別課ヲ学バズンバアル可カラザル次第ナリ 其別課ノ授業料ト申ハ非常ニ高価ナルモノニテ毎週三回ニテ一ヶ月分七十仏 二回ニテ五十仏ト申事ニ御座候 余り高きもの故当分見合セ申居候 いつれ委細ハ後便より御報可申上候 頓首 父上様 清輝拝 御自愛専要奉祈候 当地近頃雨降りのみニテ誠ニ閉口ノ至ニ御座候 来月三日ハ天長節故公使館ニテ如昨年夜会有之由蜂須賀公使よりノ招状昨夜到来致し候 先日新聞紙中ニ日本法律史トカ申書物政府ニテ出版相成候由相見エ申候 若シ右書籍世間ニテ売リ出シ且ツ他ノ歴史ノ如ク大部ノモノニ無之候ハヾ御序ノ折御送り被下度奉願上候 先便ヨリ御注文申上候手本ノ儀ハ要用ナルモノニ非ザル事ハ勿論当分ニテハ慰ミナリトモ手習ヲスル時間ハ無之候間若シ未ダ御送リ出シニ不相成候ハヾ御取止メ被下度候 右手本ハ全ク休業中ノ出来心ニテ御注文申上候事ニテ只今ニテハ何ニ故如此必要ナラザルモノヲ態々御注文申上シカト後悔罷在候 何ニカ面白キ書籍出版ニ相成候時ハ御送リ被下度奉願上候 右要用迄如此御座候 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1885-12-3十二月三日附 パリ発信 母宛 封書
十二月三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)こうしくわんへはらさんといふおかたがおつきなさつたよしけさうけたまわりました こんにちはおやすみですからこのてがみをかきとりしだいこうしくわんにゆきはらさんといふおかたにおめにかゝるつもりです(後略) 母上様 新太
詳細 - 黒田1885-12-11十二月十一日附 パリ発信 父宛 封書
十二月十一日附 パリ発信 父宛 封書 十月十二日附け即ち原氏便よりノ尊書及十月二十一日附母上様よりノ御書状等慥ニ相届謹而拝誦仕候処先以て御尊公様御始皆々様益御壮健之由奉大賀候 次ニ私事大元気ニテ勉強罷在候間御休神被下度候 原氏も先日安着相成公使館ニテ面会致し御直左右等委細承リ大ニ安心仕候 同氏へ御頼み被下候紙包二つハ荷物外ニ相成候故日本ヘ留め置かれ候由ニテ未ダ落手不仕甚ダ残念なる一件に御座候 併シ右紙包は外務省より送ル可キ様手続キ致し置かれ候との事ニ御座候間不日到来可致と相待ち申居候 慶安太平記三冊ハ三四日前相届き申候奉万謝候 学資金として御送り被下候金五十円ノ為換券謹而拝受仕候 当時松方氏イスパニヤ国旅行中ニ御座候間公使館書記生宮川氏ヘ受ケ取方等依頼致し置候ニ付御休神可被下候 御尊公様御事正四位ニ御昇進被遊候由大慶其事に奉存候 郭公之歌どふやら歌ニなり居候由又其御返しとして玉詠御送り被下難有奉万謝候 当地去る八日初雪降リ十日夜亦少シク降リ今ニ屋上路傍等積リ居申候 私下宿致し居候家の子息撃剣を始むる由承り候故私も再び始むるの好機会と存し其旨話し置候処教師の朋友陸軍中尉べルナールと申人の世話にてよき教師を見出し去る六日より相始しめ申候 其教師ト申ハ隊付ノ撃剣教師ニテ一週二回即チ日木ノ二日兵営中ニテ授業致シ呉れ申候 月謝ハ一ヶ月分二十仏に御座候 先ハ御返事傍用事迄如此御座候 頓首 父上様 清輝拝 御自愛専要に被下度候 皆々様へ宜敷御伝言奉願上候
詳細 - 黒田1886-1-15一月十五日附 パリ発信 父宛 封書
一月十五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事昨年休暇後松方氏ノ御世話ニテ当地ノ中学校通学ヲ始メ殆ンド二ヶ月半程同処ニ於テ勉強致し候 然ルニ今般松方氏ヘ相談之上更ニ策ヲ変ジ中学ヲ去リ只別ニ教師ヲ取リ勉強スル事ト相定メ申候 其後ハ当地中学学校ノ課目中ニハ羅甸希臘ノ二語十中七八に位シ仏語学ハ至而少シ(仏人ハ別ニ仏語学ト云テ専門ノ様ニ勉強セザルトモ年ト共ニ充分ニ語学ヲ学ヒ得ルナリ) 故ニ外国人ノ為ニハ甚ダ不都合ナル学課ト云可シ 尤モ羅甸ハ法律ヲ学フニハ至而必要ナル者ト承リ候得共希臘語ノ如キニ至而ハ法律ヲ学フ為メニハ少モ用ナシト申事ニ御座候(中略) 且ツ私事ハ第五級ニ入候故普通学ヲ卒業シ大学ニ入ル迄ハ尚五年ヲ要ス 而又大学ニ少ク共四五年ハカヽル事ナレバ前後十年ノ後ニ非ザレバ一人前ト為ルヲ得ザルナリ 右之通故余リ馬鹿ゲタル一件ト存ジ松方氏ニ委細相談仕中学を去ル事ト相定メ已ニ去月二十八日ヲ以テラシヌ町ト申処ヘ引移リ毎日アルカンボウト申教師ヲ取リ二時ヅヽ仏語ハ勿論羅甸ト英語ヲ少シヅヽ勉強致居候 又来期ノ始メ即ち今年夏休後ヨリハ是非共法律専門ニ入リたき事ト存ジ候 依テ耳慣シノ為メ時々法律大学校講義傍聴ニ罷越候 普通ノ話ニハ最早不都合ナキ様ニ相成候得共未ダ講義ナドハ充分ニ解スル事ヲ得ズ残念此事ニ御座候 併シ折角勉強致し候間御休神可被下候 又万事松方氏之御世話ニ相成候間甚ダ仕合ニ御座候 法律専門相始メ候事ニ付テハ田舍ノ大学校ニ於テ勉学スル方ガ此巴里ノ都府ニ於テスルヨリモ金モ入ラズ萬事徳用ナリト田舍行ヲスヽムル人ナド有之又松方氏モ田舍行ノ事ニ付テハ至極御同意ニ御座候間当時松方氏ニ依頼シ可然田舍さがし方ニ御座候 多分田舍ニ行く事と相成と存しいづれ定まり次第委細御報道可仕候間左様御承知可被下候 松方氏モ今般辞職ノ上官費生と為りベルジク国ニ行き交際学ヲ勉強セントテ辞表モ已ニ奉リ日本政府ノ許可次第当地出発ノ由承リ候 ベルジク国ハ当地ヨリハ近キ処ニテ矢張仏語ヲ話ス処ノ由ナリ(後略) 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1886-1-29一月二十九日附 パリ発信 父宛 封書
一月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)以先便申上候通已ニ中学校ヲ去リ当今ハ毎日法律学校又仏蘭西校ト申処ニ二時間位ヅヽ罷越法律経済なドノ話ヲ耳ナラシノ為傍聴仕居候 又毎日二時間特ニ教師ヲ雇ヒ勉強致し候間御休神可被下候(後略) 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1886-2-10二月十日附 パリ発信 父宛 封書
二月十日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)次ニ私事至極壮健先般松方氏ノ御世話ニテモンルージユト申処のミルマンと云老人の私塾に入塾仕此ノ処より毎日法学校又ハ仏蘭西校ト申処ヘ通学仕講義傍聴致居候 下宿屋ニ居ルよりも塾ニ居りて勉強致す方仏語学の為メニも宜しく又当地ハ書生ノ為ニハ有名ノ危険ノ場処故入塾致し居方皆々様も御安心可被遊と奉存候 松方氏も去五日午後六時二十分之気車ニテベルジク国ヘ向ケ出発ニ相成候故当地ハ甚ダ淋しク相成申候(中略) ミルマン塾ヘハ是迄渡氏ヲ始メトシテ日本人常ニ絶エズ入塾致し居し処ノ由ニテ日本人ノ写真なども沢山御座候(中略) 臥遊席珍五冊先日慥に公使館にて請取閑暇ノ折読み居申候 余程面白き事ニ御座候 右厚く御礼申上候 公使館ニテ一ヶ月一度ヅヽ日本人ノ会がある事ニ相成去る七日が初会ニテ御座候 山本(当地在留ノ画工)藤(工部大学卒業生ニテ同工部省より官費ヲ以テ油絵ヲ学ブ人)林(当地在留ノ日本画其他諸古物ナドノ商人先ヅ一寸云ハヾ古道具屋也)ノ諸子ガ日本美術ノ西洋ニ及バザルヲ嘆ジ私ニ画学修業ヲしきりに勧め申候 且つ私ニ画ノ下地あるを大ニ誉め曰ク 君ニシテ若シ画学ヲ学ひたらんにはよき画かきとなるや必せり 君が法律を学ぶよりも画を学びたる方日本の為メニモ余程益ならん などゝ迄申候故少しく画学を始めんかとも思ヒ居候 固より好きの事故少しく勉強したらんには進歩可致と存候 先ヅは一左右草々如此御座候 頓首 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1886-3-19三月十九日附 パリ発信 父宛 封書
三月十九日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先日藤島ト申当地在留ノ本願寺僧ノ世話ニテ当地ノ諸大学校生徒相集り組織せる書生会ト申へ入会仕候 会費ハ一ヶ年分十二仏ニテ即チ一月ガ一仏ナリ 此会ハ二年前ニ立チシモノニシテ只今ニテハ余程盛ナルモノニ御座候 諸生ノ為メニ出来シ会故諸生ニ取テハ都合よき事不少 同会々員ノ証ヲ持チ居レバ写真ヲ写す時モ(同会ニテ定メタル写真屋)其価ノ幾分カヲ減ズ 芝居(之レモ同ジク会ニテ定メタルモノニ限ル)ニ於テモ亦然リ 第一私ノ為メ便利ト申ハ撃剣ニテ同会ノ教師ヲ頼ミ修業スル時ハ今迄ノ半額即チ一ヶ月分十仏ニテスミ候 本月より同会ニテ修業致ス積リニ御座候 又其会ニハ勉強室書籍庫等有リ 今般ノ大改革ニテ官吏モ試験ヲ受ケ採用セラルヽ事ト相成候由為国家大慶之至奉存候 私モ来朝ノ始メヨリハ是非専門学ニ移りたきものと折角勉強罷在候間御休神可被下候 今日ノ洋学者ハ十年前ノ洋学者トハ異ひ候間官員目的よりも自力生活方法ノ方専要ナリト存候 只今ノ処ニテハ先ヅ先ヅ生活モ容易ナル可キモ他日西洋各国ノ如ク余リ外国人ニ自由ヲ与ヘ白人種ガ日本ノ内地ニ入リ込ミ金ニ任セテ各種ノ業ヲ興ス時ニ至ラバ始メテ日本人難儀可致ト存候 此ノ害即チ外国人ガ内地ニ入リ込ミ内国人同様ノ権利ヲ以テ生活シ内国人ノ利ヲ奪フ如キハ此ノ仏国ニテモ同ジ事ナリ 即チ外国ノ職人が沢山入リ込ミテ内国人の職ヲ奪ヒタルガ為メ内国人ハ非常ノ困難ニおちいりたり 米国が支那人ニ於ケルモ皆同シ 折角勉強三四年ノ後ハ是非一人前ノ人間ニ相成可申候間御休神可被下候 先は御返詞迄 草々 頓首 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1886-4-9四月九日附 パリ発信 母宛 封書
四月九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしもこの五日の日にこちらにおるにつぽんじんみんなとはぶるといふところにふなおろしをみにまいりました なかなかおもしろいことでございました(中略) なんでもこちらからいつたにつぽんじんがふしみのみやさんやこうしくわんのひとたちをみんなあわせて二十二三にんばかりでした さてはぶるといふところにつくとかいぐんのひとなどがむかいにきておりすぐにばしやにてはぶるだい一といふやどやにまいりました このやどやはうみばたにてまことによいところです わたしはふぢとごうだといふひとと三にんですぐはまべにでてかけあるきました ひさしぶりでうみをみましたからまことにうれしいことでした(後略) 母上様 新太郎より
詳細 - 黒田1886-4-23四月二十三日附 パリ発信 父宛 封書
四月二十三日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)当地気候全ク春ニ相成申候 此頃ハパークト申当地ノ大祭ニテ諸学校等二週間程ノ休業有之候 私ノ居ル学校ハ明土曜日より休ニ相成来週中ハ休業ノ事ニ御座候(中略)我塾長ミルマン氏ハ昨日出発フヲンテヌブロート申当地有名ノ絶景ノ地ニ罷越し候 妻君モ同ジク同地ヘ向ケ明日出発するとの事ニ御座候 私モ此ノ休中ニハ遠足デモせんかと独り考ヘ居申候(後略) 父上様 清輝拝〔図 写生帖より〕
詳細 - 黒田1886-5-7五月七日附 パリ発信 母宛 封書
五月七日附 パリ発信 母宛 封書 だんだんとまたなつがちかよつてまいりましたがみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候おんことまことにまことにおんめでたくなによりけつこうなことでございます つぎにわたくしことはいつも申あげますとうりげんきなことにてべんきようをしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし どうもこちらはなんともかんともゆわれないよいてんきですからそちらもやつぱりよきおてんきがつゞくだろうとかんがへます せつぺせけんにでかけておあるきなさいまし わたしもちよいちよいちかくのいなかにふぢといふこちらにきておるあぶらゑのゑかきさんといつしよにでかけます わたしはあぶらゑはかけませんからたゞゑんぴつとかみをもつてゆきます そうしてふぢさんがかいておるわきでけいしよくをかきます そうしてあとでなをしてもらいます なかなかよいたのしみになりますよ またこれはたゞたのしみばかりでななくよいゑのけいこでございます こんげつのはじめからこちらのまいとしあるゑのはくらんくわいがはじまりましたからわたしも一どみにまいりました どうもどうもきれいなことです けれどもことしのはきよねんのにくらぶれバよいゑがすくないともうすことでございます あんまりゑがたくさんあるものですからわたしははんぶんもみないでかへりました またこのつぎのにちようにみにいかうとおもつております わたしがしやしんとりにゆくことはまだとじまりません こないだあらかわみのしさんにおめにかゝりそれからまたこうしんくわんでむらたつなたろうさんにもひさしぶりであいました けれどもわたしはみなさんがげしくをしておいでなさるところからずいぶんはなれたところにおるもんですからたびたびあいにゆくわけにもゆかずそのうちにおやすみもすんでしまつたものですからたつた一どあつたぎりでした もうたぶんみんなたつておしまいなさつたゞろうとぞんじます こんどはまづこれぎり めで度かしこ おせつくもすんでしまいましたねー 母上様 新太 このつぎのびんぐらいからしんじろとなをにゑいりしんぶんをおくつてやりますからそうゆつてください ほくかいどうにおてがみをおだしなさるときにはよろしく
詳細 - 黒田1886-5-21五月二十一日附 パリ発信 父宛 封書
五月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 三月三十一日附ケノ尊書謹而拝誦仕候 其御地御尊公様御始メ御一同御揃ひ益御安康之由奉賀候 次ニ私事至極元気勉強致し居候間御休神可被下候 元老院ニテモ幹事被廃只議長議官ノミニ相成ニ付テハ御尊公様モ舊ノ議官ニ御復職被遊候由官費ノ御隱居定而御満悦ノ事ト奉遠察候 筆を取り剣を振りて国の為め盡せし君を神やわすれん 私事法律学を修行致し候積ニテ只今迄只語学ノミを勉強仕候得共能ク能ク将来ノ事ナドヲ相考ヘ申候ニ如御意今日ハ已ニ法律家も多キ世中ニ御座候間普通ノ法律学を学ヒ得テ帰国候とも左程国益ニも相成申間敷と被存申候 又今日ハ独逸学ノ世ニ御座候間仏学ニテハ政府ヘノ向き甚ダ悪しき事ならん 当地ニテ学士位ノ免状を得候ハヾ御試験ノ上政府ニテ三四十円位ノ小役人ニ取立被下カモ不知候得共(原文傍書)(是レモ至テ難キ事ナリ)貴重ノ金銭ヲ費シ数年間外国ニ在リ帰国後僅カ三四十円ノ為メニ繋カレテ面白カラザル御役人様ノ下ニ腰ヲ屈スルナドハ余リ心地能キ事トモ被存不申 さればとて政府ノ御影ニ付カザル時ハ三四十円ハオロカ忽チ活計ニ苦ムハ目前ニ御座候 如何トナレバ仮令西洋ノ法律ニ達シタレバトテ私如キ漢学ノ力ナキモノハ書ヲ著述スル事ハ勿論西洋書ヲ翻訳スル事サヘモ無覚束候 又通常ノ笑談デサヘモ口もづれて思ニ任セザル私ニ御座候得ば代言人ト為リテ能弁ノ名ヲ得ンナドノ事ハ最モ難キ事ニ御座候 右ノ如ク色色ト相考ヘ申候ニ法律専門ニテ国益ニナル程ノ事を為サンハ余程六ヶ敷被存候 依而今般天性ノ好ム処ニ基キ断然画学修業ト決心仕候 於当地現ニ油画ヲ修業致し居日本画工三人有之候(五姓田・山本・藤氏) 皆日本ニテハ屈指ノ画家ト申事ニ候得共美術ニ長ジタル仏国ノ事ニ御座候得ば其人ニ乏カラズ 右三人ノ画ノ如キハ先ヅ西洋人ノ中ニ持出ス可キ程ノモノニ非ズト申事ニ御座候 尤モ何学ニテモ一通迄ハ皆々相達シ可申候得共只難キハ少シク人ノ上ニ出ル事ニ御座候 又画学ハ他ノ学問ト異ひ何年学べバ卒業スルト云事ハ無之年ノ長短ハ只其人ノ天才ニ依ル事ニ御座候 私一度決心致し候上ハ一心ニ勉強可仕候 其結果ノ好悪ハ只天ニ御座候 日本ニハ西洋諸国ノ上下院ノ規則及体裁等を熟得したる人に乏しき由 右ハ別ニ専門学ヲ要スルト云程ノ事ニモ無御座候間折角注意致し折可申候 左様御休神可被下候 当地此頃ハ随分あつさニ相成申候 むしのなく声を聞ても思ふかな我故郷のなつのゆうくれ 先ツハ御返事傍草々如此御座候 頓首 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1886-5-21五月二十一日附 パリ発信 母宛 封書
五月二十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)父上様がなんでもやいつけることのできるものをけいこしろとゆつておやりなさいましたからこんどゑをほんとうにけいこしようとおもいます 二三日のうちにわたしのしつておるずいぶんいゝせんせいのうちにいつてはなしをしてみようとおもつております(後略) 母上様 清輝拝
詳細 - 黒田1886-5-28五月二十八日附 パリ発信 父宛 封書
五月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 寸楮拝呈仕候 追々暑気相催候処其御地御尊公様御始皆々様御揃益御安康奉賀候 次ニ私事至而元気勉学罷在候間御放念可被下候 先便より申上候通今度愈画学修業ト相定メ去二十二日兼而存居候コラント申当地ニテ随分評番よき画家ヘ目的ヲ述ヘ即チ弟子入仕候 依而同氏ノ指図ニテルーブルト申当地第一ノ博物館ニ在ル石像ヲ折角写居申候 已ニ三日続けて午後のみ相通ヒ申候ニ付右館内ノ風ニモ略相慣れ申候 古キ油画ヲ写しニ来リ居者ハ勿論石像ヲ写ス者モ随分多く有之其中女ノ画かきも不少候 見物人ノ沢山有ル中ニテ黄色人種ナル上ヘヘタナ画ヲかき居ルハ赤面ノ至ニ御座候得共是レモ肝ヲ大クスルノ一端ト存候得ば大先生ノ様ナ面ヲシテ平気ニテ写像スル等実ニ愉快ナル一件ニ御座候 昨日は木曜日ニテ諸学校半休日ナリ 依テ或学校ノ教師生徒一隊ヲつれて博物館見物ニ来リ私ノ顔色ノ異りたるト白紙上ニ只一線ノ引キアリシノミナルヲ見テ生徒等大ニ嘲リ之レハシヤレテオルト申候故ウマク出来テ居ルダロウト笑ヒながら答へたるものヽ実ハ赤面仕候 又同館従覧人中過半ハ英人ノ様ニ御座候 私画学ヲ始メタル事ハ当地ノ日本人ハ一人モ不知少シ出来様ニナル迄ハ秘シ置積ニ御座候 先ハ一左右如此御座候 頓首 父上様 清輝拝 御自愛専要ニ奉祈候 皆々様ヘ可然御伝言願上候
詳細 - 黒田1886-6-11六月十一日附 パリ発信 父宛 封書
六月十一日附 パリ発信 父宛 封書 一筆拝呈仕候 御尊公様御始メ皆様御揃益御安康大慶至極ニ奉存候 次ニ私事至而元気毎日午後ノミハ博物館ニ於テ画学稽古致居候間御休神可被下候 私教師ト頼ミ候コラント申人中々深切ナル男ニテ当分(同人ノ学校ヘ通学ヲ始ムル迄ノ内)無月謝ニテ授業致し呉れ候 甚ダ仕合ワセナ一件ニ御座候(尤モ一週一回即チ土曜日二週間ニ画キタル小生ノ画ヲ同人ノ宅ヘ持参シ之レハ悪シトカ又少シハ善シトカ評ヲ受ルノミナリ)此ノ教師日本ヨリ布ヲ送リ貰ヒタキ旨ヲ私ニ依頼致し候 其布トハ同氏ガ画ヲ画ク時ニ用ユルモノニシテ錦類ノ事ニ御座候 当地ノ人物画家ハ裸カ或ハ腰部ヲ少シク隱シタル画ヲカクヲ好ミ毎年ノ共進会ニモ裸体ノ女ナドハ非常ニ多ク有之候 扨テ教師ガ日本ノ布ヲ望ムハ之レヲ女ノ体ニ巻キ付ケタリナドシテ其の像ヲ写サンガ為メニ御座候 尤モ錦ト限リタルニハ非ズ只金糸或ハ各種ノ糸ヲ以テ花鳥或花斑ナドヲ縫ヒ出シタルモノト申事ナリ 地ハ赤ニテモ青ニテモ何ニテモカマワズ花斑ナドハ支那メキタル方ヨリ却テ日本風ニシテ俗ナル方可然ト存候 新ラシクシテ品ノ悪キモノヨリ少シ位破レタリ又色ガサメタリシテ居候トテモ品ノ良キ方ヲ好ミ申候 古着屋ニ有ル模様付ノ古布レ其他掛ケ物ノ縁ニ付クル様ナ布ナド可然モノヲ御見立数品御送リ被下候ハヾ幸甚之至ニ奉存候 布ノ大サハ幅モカナリ広クシテ長サモ少シ長キモノ差当リ無之候ハヾ二尺位ノ小布ニテモ宜敷候 此ノ教師ハ画学ノ方ニ取リテハ随分良キ教師ニ御座候間進物ナドヲシテなる可くよく取り扱ヒ置く時ハ少シモ損ハ無之ト存候 右ハ随分六ヶ敷キ注文ニハ御座候得共御見当り次第通運よりなりとも御送り被下度奉願上候 又同氏ハ非常ノ花狂人ニシテ日本ノ花ナドモ少シハ庭ニ植ヘ楽ミ居候 日本ノ山野等ニ生ズル草花木ニ付テノ書物デモ有ルナレバ是非手ニ入レ度キモノ故之レモ日本ヘ注文シテ呉れト申事ニ御座候 絵入ノモノ有之候ハヽ格別ニ御座候得共若シ絵入有之候ハヾ小生仏語ニ翻訳可致候間何カ日本ノ花木ニ付テノ書物御送リ被下度奉願上候 人情ハ何処ニテモ同シ事ニ御座候得共当地ニテハ進物ノ功能格別ノ様ニ御座候 当地此頃ハ晴雨不定一日ノ中雨ノ降ラザル日ハ稀ナリ 先ハ用事迄 草々 頓首 父上様 清輝拝 御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ可然御伝声奉願上候
詳細 - 黒田1886-6-25六月二十五日附 パリ発信 父宛 封書
六月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)画学は折角勉強致し居候 余り進みの悪シキ方ニ無之教師も随分満足致し居候 先便より色々面倒なる御注文申上候 又日本の花菖蒲の種を送り貰ひ度旨頼まれ候に付各種の実数種づヽ幸便ノ折にても御送り被下候はヾ幸甚の至に御座候(後略) 父上様 清輝拝
詳細 - 黒田1886-7-23七月二十三日附 パリ発信 母宛 封書
七月二十三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)つぎにわたくしことはいつももうしてあげますとうりぴんぴんです またゑのけいこはおこたらずいたしておりますからどうぞごあんしんくださいまし(中略) さる十四日こちらのおゝまつりでした わたしはもう二どもみましたからことしはみたくなくふぢといふにつぽんからゑのけいこにきておるひとゝ十三日のゆうがたからがるしゆと申ちかいいなかにとまりがけにてあすびにまいりました そのがるしゆと申ところにわたしのしつておるせいようじんのゑかきがおります 十四日のひはそのひとのうちやまたそのとなりにおるひとのうちなどでごぜんのごちそうになりました ゆうめしごはそのゑかきがふうふそのほかりようどなりのふうふとわたくしたちふたりまたよそのおかみさんがひとりつがうあわせて九にんにてにわのうゑきににつぽんのつろを十二三もぶらさげはなしなどをしておるうちにぱりすではなびをあげだしましたからみんなで二かいにのぼりはなびのけんぶつをなしのちまたにわにいきました こんどはみんなでうたをうたうことにて(後略)〔図〕
詳細 - 黒田1886-7-30七月三十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書
七月三十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書 六月三日おだしのおてがみたしかにあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたしましたら父上様 あなたさま御はじめみなみなさま御そろひますますごきげんよくいらせられ候よしまことにまことにおんめでたくぞんじあげまいらせ候 つぎにわたくしこといつもかわらずげんきなことにてさる二十八日まつがたさんがぱりすにちよつときておかへりなさるをさいわい一しよにべるじつくといふくににいきました このべるじつくではやつぱりふらんすのことばをつかいますからすこしもふじゆうはございません またわたしなどのおるべるじつくのみやこぶりゆくせると申ところはたいへんきれいなところにてちいさなぱりすとでももうすようなところです につぽんじんのしよせいがしごにんおります わたしは一月ばかりおるつもりです いろいろめづらしいことがございますからこのつぎのびんにくわしく めで度かしこ 母上様 ぶじ 新太拝 せつかくごようじんごようじん みなさんによろしく なつやすみにたびをするのはことしがはじめてです
詳細 - 黒田1886-8-13八月十三日附 ウォータルー発信 父宛 葉書
八月十三日附 ウォータルー発信 父宛 葉書 今日ハ手紙日ニ御座候得共長き手紙ヲ認むる事不能 端書ヲ以て只壮健ノ旨ヲ御報申上候 島村 松方ノ両君ト有名ナル古戦場ウヲテルローヲ見物仕只今帰る処ニ御座候 頓首
詳細 - 黒田1886-8-20八月二十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書
八月二十日附 ブリュッセル発信 母宛 封書 (前略)まつがたさんのおせわでうゑべるさんといふうちをしりました(中略) わたしはそこのうちにあすびにいくときつとゑをかきます おかみさんのしやしんをみてかいたのをもつていつてやりましたらよくにておるといつておゝよろこびをいたしましてそれをがくにするとかゆつておりました けふはそのおかみさんが一しよにゑのはくらんくわいをみにつれていくからひるめしをたべずにこいともうしました それゆへこれからすぐにそこのうちにゆきみんなと一しよにごぜんをたべそうしてゑのけんぶつにゆくつもりです めでたくかしこ 母上様 新太拝
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