〔大正2年(1913年)2月4日〕
- 日付
- 1913-2-4(day)
説明
二月四日(火) 授業如例。 午後、青年会館ニ於テ東京基督教教育委員会ヲ開キ、高等部聯合ノ事ニ付懇談ヲナス。 其後、モツト氏ノ諮問ニ対シテ調査分担ヲ定ム。 元田氏トドクトルミントンヨリノ回答ニ付相談ノ上、尚一応フヒシヤール氏ト相談スルコトトナス。 昨日ハ節分ノ由、寒気著シク減退シタルヲ覚ユ。
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- 井深1924-7-24〔大正13年(1924年)7月24日〕
七月二十四日(木) 晴 ドクトルモツト及ガレンエムフヒシヤル氏ヘ書状ヲ送ル。フヒシヤル氏ハ日本ニ再ビ来ラヌ決心ノ旨ノ通知ニ答ヘタルナリ。在米ノ吉川次郎、大川尽四郎、佐藤良雄ヘ返書ヲ出ス。 夕刻散歩ノ際、小坂順造氏夫妻ニ会フ。数日前来レリトノコトナリ。
詳細 - 井深1913-3-4〔大正2年(1913年)3月4日〕
三月四日(火) 授業如例。 神学部教授会ヲ開キ、夏期講習会ノ件其他ニ付協議ヲナス。 青年会館ニ於テ来月モツト氏来朝ノ節学生大会ノ役割ニ付相談ス。 ソレヨリ元田氏ト共ニ、坂井徳太郎氏ヲ本郷同志会ニ訪ヒ、渡米旅費ノ件ニ付相談シタルニ、同氏モ至極同感ナルガ故ニ早速外務大臣ニ謀ルベシト約束シタリ。
詳細 - 井深1913-4-1〔大正2年(1913年)4月1日〕
四月一日(火) 午前九時、全国青年会大会ヲ青年会[館]ニ開ク。元田氏司会、余、開会ノ辞ヲ述ブ。 午後一時五十分、モツト氏夫婦ヲ新橋停車場ニ迎フ。丹羽清次郎氏モ同行シタルヲ以テ先ヅ京城青年会ノ事情ヲ聞ク。金麟ノ所為甚タ拙ナリトノコトナリ。 横浜ニ赴キ小田原屋ニテ夕食ヲ喫シ、中会ニ出席シ中途ヨリ帰京ス。
詳細 - 井深1913-4-12〔大正2年(1913年)4月12日〕
四月十二日(土) 午前九時、青年会館ニ於テ教会同盟常務員会ヲ開キ、継続委員十五名ヲ選定ス。十一時ヨリ外国宣教師側ノ継続委員ト聯合委員会ヲ開ク。残余十五名ノ内十人ヲ選挙スルコトトシテ投票ニ掛ル。 其時自分ハ中座シテ、朝鮮ヨリ来リタルアンドルウード、アビソン、李商在、申興雨、南[欠字]憶五人ト同盟加入契約書ニ署名ス。モツト氏[立]合人トシテ署名ス。日本人側ハ余ノ外ニ元田、新渡戸、笹尾、丹羽ノ五人ナリ。 ソレヨリ三河亭ニテ午餐ヲ共ニシ、支那人青年会館前ニ往キ、紀念ノ為撮影ヲナス。
詳細 - 井深1913-4-17〔大正2年(1913年)4月17日〕
四月十七日(木) 午前、出院授業如例。 午前、李、金、二人ノ案内ニヨリ上野精養軒ニ至ル。海老名、宮川、牧野氏等モ来ル。余ハ朝鮮会加盟ノ手続キヲ話シ、独リ先キニ辞シ去ル。 フヒシヤール氏方ニ往キ、青年会同盟委員ト共ニモツト氏ト会見、同氏ノ意見ヲ聞キ、次ニ続続委員ト共ニモツト氏ニ会見シ又同氏ノ意見ヲ聞キ、互ニ意見ヲ交換ス。
詳細 - 井深1911-2-6〔明治44年(1911年)2月6日〕
二月六日(月) 授業如例。 午後四時、青年会同盟事務委員会ヲ開ク。フヒシヤル、元田二氏帰朝。フ氏ハ日本青年会事業ノ為ニ五十万円ノ予約金ヲ募リテ帰レリ。 会後、東京青年会ノ理事ト共ニ両氏歓迎会ヲ開キ、夕食ヲ共ニス。
詳細 - 井深1909-3-18〔明治42年(1909年)3月18日〕
三月十八日(木) 午前、出院如例。 正午、熊野氏ト同道ニテ、バラ夫人ノ葬式ニ赴ク。式ハフエリス女学校講堂ニ於テ営マル。ブース氏司会、タムソン氏ノ説教アリ、余ハ修養会ノ決議ノ旨ヲ述ブ。墓地迄送リテ後帰京。 直チニ亀島町偕楽園ニ赴キ、大塚、江原、元田、フヒシヤル氏等ニ会見ス。目的ハ韓国鉄道管理局長大屋権平氏ニ同鉄道青年会ノ事ニ付キ賛同ヲ請ハンガ為ナリ。
詳細 - 井深1909-7-14〔明治42年(1909年)7月14日〕
七月十四日(水) 午前九時、青年会館ニ於テバルトン氏ト会見ス。イムブリー、ワイコツフ、本多、小方、クレメント、バンニングホク、フヒシヤルト余ノ八人ナリキ。元田、タツカルノ二人ハ来ラズ。キリスト教大学ノ事ニ付意見ヲ交換ス。余ハ再ビ其必要ヲ論ズ。本多氏ハ一片ノ論文ヲ提出ス。固ヨリ結果ハ今日予知スベカラズト雖、全ク無益ニハ非ルベシ。 大塚氏ト共ニ午餐ヲ喫シテ後、片山、荒川両家ヲ訪問シテ帰ル。 暑気頓ニ増シ、八十六度以上ニ昇ル。
詳細 - 井深1907-1-25〔明治40年(1907年)1月25日〕
一月二十五日(金) 出院授業如例。 モツト氏昨日来朝、本日帝国ホテルニ於テ会食ヲ求メ来リタルニヨリ即チ往キ、フヒシヤル氏ト三人ニテ午餐ヲ共ニシナガラ語ル。事ハ今回同氏ガ日本ノ学生寄宿舎ノ為ニ齎シタル報知、即チ米国ノ学生ヨリ我ガ学生ノ為ニ寄附シタル金貨五万弗ノ事ナリ。 明日ハ同氏同道ニテ文部大臣ヲ訪問スル筈ナリ。 ホテルヲ出ル時、モールス氏夫婦ニ邂逅ス。同氏モモツト氏ト同行シタルナリ。
詳細 - 井深1907-1-26〔明治40年(1907年)1月26日〕
一月二十六日(土) Went to the Imperial Hotel. In company with Mott, Honda & Fisher called on Mr. Makino the Minister of Education who received us cordially. Mott spoke about the proposed Hospices and asked his cooperation in getting the Japanese moneyed men to contribute toward the fund. He was very courteous and simply said he will consider the matter and let us know. Then we drove to Count Okuma’s. He was very cordial and showed a lively interest in the enterprise and promised to give letters of Introduction to different welthy men. In the afternoon Mr. Mott met the Central Committee and others and told them about the delegates and programme of the Conference. He spoke in the Hall in the evening. 帝国ホテルに行く。モット、ホンダ、フィッシャーの3人で牧野文部大臣を訪ね、快く迎えていただいた。モットは提案されているホスピスについて話し、日本の富豪に資金を提供させるために協力を求めた。牧野大臣は非常に礼儀正しく、「検討してお知らせします」とだけ言った。それから私たちは大隈伯爵のところへ行った。彼はとても親切で、この事業に大きな関心を示し、さまざまな富豪に紹介状を渡すことを約束した。 午後、モット氏は中央委員会とその他の人々に会い、代表団と会議のプログラムについて話した。夕方、モット氏はホールで講演した。
詳細 - 井深1907-1-27〔明治40年(1907年)1月27日〕
一月二十七日(日) Preached in the Shiba Church, baptized four young men. At 3 p. m. went to the hotel again to consult with Mr. Mott. Honda, Fisher, Niwa, Komatsu, Otsuka, Kashiwai were present. We considered the different speakers and subjects & c. until he had to start for the station. We went to the Shimbashi Station to see him off. Mr. Morce went with him. Fisher and other foreign secretaries went with him as far as Shizuoka to talk over different matters with him in the train. He is one of the energetic and active men I have ever seen. 芝教会で説教し、4人の青年に洗礼を授ける。午後3時、再びホテルへ行き、モット氏と相談する。本多、フィッシャー、丹羽、小松、大塚、柏井が同席した。彼が駅に向かうまで、さまざまなスピーカーやテーマなどを検討した。私たちは新橋駅まで見送りに行った。モース氏は彼と一緒に行った。フィッシャーや他の外国人秘書は静岡まで一緒に行き、列車の中で彼といろいろな事柄について話し合った。彼は私が今まで見た中で最もエネルギッシュで活動的な男の一人である。
詳細 - 井深1905-5-3〔明治38年(1905年)5月3日〕
5月3日(水曜日)~7日(日曜日) On May 3rd the Wednesday we took a morning train from Gare de【sic】 Nord for Zeist, Holland, where we arrived about 6 o’clock. Our lodging was a “Kinder pension”. Honda, Fisher, Davis [Son of Dr. Jerome D. Davis of Doshisha] and I had the same room. We had breakfast at the pension but dinner and supper at a small hotel. The Conference began on Wednesday evening in the Moravian church. The delegates from nearly 30 nationalities were more than 100. The simplicity of the church building is very striking. So different from a Roman Catholic church. The sessions were 9-12. 30 and 4-6 in the afternoon. The languages were German and English, one less than the Paris Conference and so much less tedious. At first there was very little enthusiasm. I was not the only one who felt it. But the interest increased as the conference proceeded until it culminated in the Sunday afternoon and evening meetings. Honda read a paper on the Bible study. I spoke Sunday afternoon on “the New Orient and its claims on the Students of the West.” I also spoke at the women’s section of the conference which was organized for the first time this year. There were about 30 delegates. My topic was the woman students and their spiritual needs in Japan. The evenings were devoted to the committee meetings. Principal business of the meetings were the re-affirmation of the Evangelical basis of the Federation, election of the officers and deciding the time of the next conference in Japan to be April. On Sunday evening Mr. Mott gave a powerful address on “The Price of Leadership.” Before he spoke, however, he made an appeal for subscription for the expense for the next Conference. And in a few minutes £684 were subscribed. One evening was given to a discussion in the meaning of “Conversion.” German and Dutch movements had suspicion in regard to the American idea of Conversion. They thought Americans had very very superficial views about it. Each delegate from different movements read a brief statement on the sense of conversion as understood by them. [Note. Honda seems to have read his paper “My Conversion”. For reference See Okada’s “Honda Yōichi Den,” p.209] The result was a most striking unity of its essential meaning. Everybody was satisfied ……and we separated on Sunday night with thanksgiving and sorrow in our hearts. Zeist is a beautiful spot highly characteristic of Holland. The houses and streets are very clean and the avenues of trees are beautiful. The place is full of villas of rich men. 5月3日、水曜日には北駅から朝の列車でオランダのザイストに向かい、午後6時に着いた。「キンダー・ペンション」という宿に泊まる。本多とフィッシャー、デイヴィス〔注:京都同志社大学教授ドクター・ジェローム・D・デイヴィスの子息〕が同室である。朝食はペンションでとったが、昼と夜は小さなホテルで食べた。 大会は水曜日夕方、モラヴィア派教会にて始まる。30カ国近くから集まった代表団は総勢100名以上であった。 この教会の建物が簡素なことは驚くほどだった。ローマ・カトリック教会の対極である。集会は9時から12時半と、午後の4時から6時までである。言語はドイツ語と英語でパリ大会より1つ少ないため、退屈さはかなり薄れた。最初はあまり興が乗らないようであった。これは私だけが感じたのではない。しかし会が進むにつれて熱が高まり、日曜日の午後から夕刻に最高潮に達した。本多が聖書研究についての論説を読み上げた。私は日曜日の午後に「新たな東洋と、西洋の学生YMCAに対する責務」というテーマで話をした。また、今年初めて設けられた女性部会でもスピーチした。代表者は30人ほどだった。私の話題は日本における女子学生と、彼女らの精神的必要であった。 夕方からは各委員会の会議に費やされた。これら会議の結果で重要な点は、連盟の「福音主義の原則」を再確認したこと、役員の選出、次回の大会を日本で、4月に行うと決めたことである。 日曜日にはミスター・モットが「指導者の代償」という力強い演説を行った。話に入る前に、次の大会のための寄付を求めた。数分間で応募金は684英ポンドに達した。ある夜には「回心」の意味について議論がなされた。ドイツとオランダは、アメリカ的な回心の解釈に疑問を持っていた。アメリカ人の見方は表面的に過ぎると考えたのだ。それぞれの国の代表者が、改宗の自分たちの解釈を手短に説明した。〔注:本多は「私の回心」という小論を読んだようだ。岡田による『本多庸一伝』209ページ参照〕この結果、根本的意味において、目覚ましい一致をみた。全員が満足した。……日曜日の夜に感謝と別れの悲しみを胸に解散した。 ザイストはオランダらしさがよく表れた、美しい土地である。家も通りも非常に清潔で、街路樹が見事だ。富裕な人々の別荘が多くあった。
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