〔明治40年(1907年)1月26日〕
- 日付
- 1907-1-26(day)
説明
一月二十六日(土) Went to the Imperial Hotel. In company with Mott, Honda & Fisher called on Mr. Makino the Minister of Education who received us cordially. Mott spoke about the proposed Hospices and asked his cooperation in getting the Japanese moneyed men to contribute toward the fund. He was very courteous and simply said he will consider the matter and let us know. Then we drove to Count Okuma’s. He was very cordial and showed a lively interest in the enterprise and promised to give letters of Introduction to different welthy men. In the afternoon Mr. Mott met the Central Committee and others and told them about the delegates and programme of the Conference. He spoke in the Hall in the evening. 帝国ホテルに行く。モット、ホンダ、フィッシャーの3人で牧野文部大臣を訪ね、快く迎えていただいた。モットは提案されているホスピスについて話し、日本の富豪に資金を提供させるために協力を求めた。牧野大臣は非常に礼儀正しく、「検討してお知らせします」とだけ言った。それから私たちは大隈伯爵のところへ行った。彼はとても親切で、この事業に大きな関心を示し、さまざまな富豪に紹介状を渡すことを約束した。 午後、モット氏は中央委員会とその他の人々に会い、代表団と会議のプログラムについて話した。夕方、モット氏はホールで講演した。
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- 日記1907-1-26一月二十六日
一月二十六日 曇 寒 起床 七時三十分 就蓐 十一時三十分 起床後来人ニ接シ、且朝飧ヲ為ス、 中井 三郎兵衛 、 島田 蕃根 、 松本 新三郎 氏等来話ス、 午前十一時 兜町 事務所ニ抵リ、 人造肥料会社 重役会ヲ開ク、 竹田 、 田中 、 益田 、技師数名、 犬丸 氏モ来会ス、畢テ旧日鉄社員 大藪 、 堀江 二氏ト種々ノ談話ヲ為ス、 午後四時 ヨリ日本汽船会社設立ノ事ニ関シ 内田 局長及船主数名来会シ、書類ヲ審議シ発起人総会ニ関スル手続ヲ協議ス、 午後六時 銀行集会所総会ニ出席シ、畢テ晩飧ヲ為シ、帰路番町ニ一友人ヲ訪ヒ、夜 十時 王子 ヘ別宿《(帰)》ス 此日少シク感冒ノ気味ナリキ
詳細 - 年譜1907-1-26第07巻
東京商業会議所に於て日清生命保険株式会社創立総会開かれ、栄一相談役に推挙さる。
詳細 - 年譜1907-1-26第10巻
是日定時株主総会を開き、工場増設の為の資本金増加、取締役増員、定款改正等を議決し、併せて役員改選の結果、栄一取締役に選挙せらる。幾もなく当社は桑名・知多両紡績会社を合併し、尾勢地方紡績会社の合同凡そ成る。
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関連リソース
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- 井深1907-1-27〔明治40年(1907年)1月27日〕
一月二十七日(日) Preached in the Shiba Church, baptized four young men. At 3 p. m. went to the hotel again to consult with Mr. Mott. Honda, Fisher, Niwa, Komatsu, Otsuka, Kashiwai were present. We considered the different speakers and subjects & c. until he had to start for the station. We went to the Shimbashi Station to see him off. Mr. Morce went with him. Fisher and other foreign secretaries went with him as far as Shizuoka to talk over different matters with him in the train. He is one of the energetic and active men I have ever seen. 芝教会で説教し、4人の青年に洗礼を授ける。午後3時、再びホテルへ行き、モット氏と相談する。本多、フィッシャー、丹羽、小松、大塚、柏井が同席した。彼が駅に向かうまで、さまざまなスピーカーやテーマなどを検討した。私たちは新橋駅まで見送りに行った。モース氏は彼と一緒に行った。フィッシャーや他の外国人秘書は静岡まで一緒に行き、列車の中で彼といろいろな事柄について話し合った。彼は私が今まで見た中で最もエネルギッシュで活動的な男の一人である。
詳細 - 井深1905-5-3〔明治38年(1905年)5月3日〕
5月3日(水曜日)~7日(日曜日) On May 3rd the Wednesday we took a morning train from Gare de【sic】 Nord for Zeist, Holland, where we arrived about 6 o’clock. Our lodging was a “Kinder pension”. Honda, Fisher, Davis [Son of Dr. Jerome D. Davis of Doshisha] and I had the same room. We had breakfast at the pension but dinner and supper at a small hotel. The Conference began on Wednesday evening in the Moravian church. The delegates from nearly 30 nationalities were more than 100. The simplicity of the church building is very striking. So different from a Roman Catholic church. The sessions were 9-12. 30 and 4-6 in the afternoon. The languages were German and English, one less than the Paris Conference and so much less tedious. At first there was very little enthusiasm. I was not the only one who felt it. But the interest increased as the conference proceeded until it culminated in the Sunday afternoon and evening meetings. Honda read a paper on the Bible study. I spoke Sunday afternoon on “the New Orient and its claims on the Students of the West.” I also spoke at the women’s section of the conference which was organized for the first time this year. There were about 30 delegates. My topic was the woman students and their spiritual needs in Japan. The evenings were devoted to the committee meetings. Principal business of the meetings were the re-affirmation of the Evangelical basis of the Federation, election of the officers and deciding the time of the next conference in Japan to be April. On Sunday evening Mr. Mott gave a powerful address on “The Price of Leadership.” Before he spoke, however, he made an appeal for subscription for the expense for the next Conference. And in a few minutes £684 were subscribed. One evening was given to a discussion in the meaning of “Conversion.” German and Dutch movements had suspicion in regard to the American idea of Conversion. They thought Americans had very very superficial views about it. Each delegate from different movements read a brief statement on the sense of conversion as understood by them. [Note. Honda seems to have read his paper “My Conversion”. For reference See Okada’s “Honda Yōichi Den,” p.209] The result was a most striking unity of its essential meaning. Everybody was satisfied ……and we separated on Sunday night with thanksgiving and sorrow in our hearts. Zeist is a beautiful spot highly characteristic of Holland. The houses and streets are very clean and the avenues of trees are beautiful. The place is full of villas of rich men. 5月3日、水曜日には北駅から朝の列車でオランダのザイストに向かい、午後6時に着いた。「キンダー・ペンション」という宿に泊まる。本多とフィッシャー、デイヴィス〔注:京都同志社大学教授ドクター・ジェローム・D・デイヴィスの子息〕が同室である。朝食はペンションでとったが、昼と夜は小さなホテルで食べた。 大会は水曜日夕方、モラヴィア派教会にて始まる。30カ国近くから集まった代表団は総勢100名以上であった。 この教会の建物が簡素なことは驚くほどだった。ローマ・カトリック教会の対極である。集会は9時から12時半と、午後の4時から6時までである。言語はドイツ語と英語でパリ大会より1つ少ないため、退屈さはかなり薄れた。最初はあまり興が乗らないようであった。これは私だけが感じたのではない。しかし会が進むにつれて熱が高まり、日曜日の午後から夕刻に最高潮に達した。本多が聖書研究についての論説を読み上げた。私は日曜日の午後に「新たな東洋と、西洋の学生YMCAに対する責務」というテーマで話をした。また、今年初めて設けられた女性部会でもスピーチした。代表者は30人ほどだった。私の話題は日本における女子学生と、彼女らの精神的必要であった。 夕方からは各委員会の会議に費やされた。これら会議の結果で重要な点は、連盟の「福音主義の原則」を再確認したこと、役員の選出、次回の大会を日本で、4月に行うと決めたことである。 日曜日にはミスター・モットが「指導者の代償」という力強い演説を行った。話に入る前に、次の大会のための寄付を求めた。数分間で応募金は684英ポンドに達した。ある夜には「回心」の意味について議論がなされた。ドイツとオランダは、アメリカ的な回心の解釈に疑問を持っていた。アメリカ人の見方は表面的に過ぎると考えたのだ。それぞれの国の代表者が、改宗の自分たちの解釈を手短に説明した。〔注:本多は「私の回心」という小論を読んだようだ。岡田による『本多庸一伝』209ページ参照〕この結果、根本的意味において、目覚ましい一致をみた。全員が満足した。……日曜日の夜に感謝と別れの悲しみを胸に解散した。 ザイストはオランダらしさがよく表れた、美しい土地である。家も通りも非常に清潔で、街路樹が見事だ。富裕な人々の別荘が多くあった。
詳細 - 井深1925-12-19〔大正14年(1925年)12月19日〕
十二月十九日(土) 晴 午前、揮毫。 後藤子爵邸ニ於テモツト氏ノ為ニ再ビ晩餐会アリ。来賓ハモツト氏ノ外、牧野内大臣、岡田文相、埴原大使、阪谷男、平塚府知事、中村市長、團、大倉、浅野等ノ実業家連。外国人ハフエルプス、ウイ[ル]バル、スネードナリ。長尾、斎藤及ビ余ハ信者側ノ客ナリ。 後藤子ノ挨拶ニ対シ、モツト氏ノ卓上演説アリ。川尻氏之ヲ通訳シタリ。趣意ハ世界ノ大勢ヨリ説起シ、Y M C Aノ事業及ビ精神ニ及ビタリ。卓上スピーチトシテハ少シク長キニ失シタリ。通訳モ三四回要点ヲ誤訳シタリ。甚タ気ノ毒ニ感ジタリ。
詳細 - 井深1924-7-24〔大正13年(1924年)7月24日〕
七月二十四日(木) 晴 ドクトルモツト及ガレンエムフヒシヤル氏ヘ書状ヲ送ル。フヒシヤル氏ハ日本ニ再ビ来ラヌ決心ノ旨ノ通知ニ答ヘタルナリ。在米ノ吉川次郎、大川尽四郎、佐藤良雄ヘ返書ヲ出ス。 夕刻散歩ノ際、小坂順造氏夫妻ニ会フ。数日前来レリトノコトナリ。
詳細 - 井深1914-12-18〔大正3年(1914年)12月18日〕
十二月十八日(金) ○午前、東京駅開場式ニ招カレテ参列ス。大隈伯ノ演説ハ中々元気ナリキ。 基督教青年会同盟委員会アリ。諸種ノ報告及議事如例。但財政ノ不足ハ難題ナリ。節約スル事トナス。独人俘虜ニクリスマス樹贈与ノコトヲ決ス。 会後、横浜青年会主事大村氏、同会館敷地ノ件ニ付報告ノ結果一問題起ル。即チ理事八名ニテ自ラ借金シテ同敷地ニ対スル抵当ヲ除キタレバ、米国委員ヨリ直チニ送金アリタシトノ請求ナリ。兎ニ角ニ事実ヲ述ベテ、モツト氏ニ請求スルヲ可トシタリ。
詳細 - 井深1913-2-4〔大正2年(1913年)2月4日〕
二月四日(火) 授業如例。 午後、青年会館ニ於テ東京基督教教育委員会ヲ開キ、高等部聯合ノ事ニ付懇談ヲナス。 其後、モツト氏ノ諮問ニ対シテ調査分担ヲ定ム。 元田氏トドクトルミントンヨリノ回答ニ付相談ノ上、尚一応フヒシヤール氏ト相談スルコトトナス。 昨日ハ節分ノ由、寒気著シク減退シタルヲ覚ユ。
詳細 - 井深1913-4-9〔大正2年(1913年)4月9日〕
四月九日(水) 午前午前八時三十分ヨリモツト氏ノ協議会ニ出席、教育委員長トシテ決議案ヲ提出ス。 十二時ヨリ会場ヲ辞シ、小﨑氏ト共ニ帝国ホテルニ往キ、ハインツ及ビブラオン氏ト共ニ午餐ヲ喫ス。ハインツ氏ヨリ旅費壱千円ヲ受領ス。残額ノ五百円ハツウリヒニ於テ受取ル筈ナリ。 四人相携ヘテ大隈伯邸ニ至リ会談ス。高田慎蔵、江原素六ノ二氏モ亦来会ス。 同邸ヲ辞シ、自働車ニテ精養軒ホテルニ帰ル。モツト氏ノ演説アリ。ソレヨリ青年会同盟委員会ヲ開キ、モツト氏ヨリ朝鮮青年会ノコト並ニ同盟信仰上ノ基礎ニ関シテ話アリ。一同会食シテ後、委員会ヲ開ク。
詳細 - 井深1913-4-17〔大正2年(1913年)4月17日〕
四月十七日(木) 午前、出院授業如例。 午前、李、金、二人ノ案内ニヨリ上野精養軒ニ至ル。海老名、宮川、牧野氏等モ来ル。余ハ朝鮮会加盟ノ手続キヲ話シ、独リ先キニ辞シ去ル。 フヒシヤール氏方ニ往キ、青年会同盟委員ト共ニモツト氏ト会見、同氏ノ意見ヲ聞キ、次ニ続続委員ト共ニモツト氏ニ会見シ又同氏ノ意見ヲ聞キ、互ニ意見ヲ交換ス。
詳細 - 井深1913-4-18〔大正2年(1913年)4月18日〕
四月十八日(金) 外務省ニ出頭シ、松井次官ニ面会シ、大正五年ニ万国日曜学校大会ヲ東京ニ開会スルコトニ対シテ外務当局ノ意見ヲ聞キタレトモ、不得要領ナリ。只差支ナカ[ラ]ントノ返事ヲ得タルノミ。 十二時半ヨリ外務大臣ノ午餐会ニ招カル。正賓ハモツト、メービー、ピーボデー氏ナリ。日本人側ニテハ高橋、菊地、桜井、金子、神田、鎌田、高田等ナリ。 坂谷市長ノ自働車ニ便乗シテ大隈伯邸ニ赴ク。モツト、メービー、ピーボデー氏、グリーン、ハリス氏等モ来ル。日本人側ハ牧師達ナリ。伯ノ演説アリ、モツトノ演説アリ。遂ニ大統領ニ宛且日本人会長ニ宛電報ヲ報スルコトニ決議シタリ。
詳細 - 井深1911-2-24〔明治44年(1911年)2月24日〕
二月二十四日(金) 午前、授業如例。 午後、大隈伯邸ニ於テリチヤールド氏ト会見ス。即チハワイ中学校奨学金供提ノ件ニ関ス。来会者、尾崎行雄、江原、本多、新渡戸、鎌田、島田、元田、成瀬、余等ナリ。三名ノ委員ヲ立テヽ方法ヲ案ゼシムルコトヽナス。
詳細 - 井深1911-2-28〔明治44年(1911年)2月28日〕
二月二十八日(火) 授業如例。 フヒシヤル、小松二氏来訪。後藤逓相訪問ノ件ニ付依頼アリ。都合ニ[ヨリ]断ル。本多庸一氏ニ依頼スルコトヽナセリ。
詳細 - 井深1911-5-4〔明治44年(1911年)5月4日〕
五月四日(木) 午前出院、授業如例。 午後一時ヨリ青年会募金ノ為、渋澤榮一男ニ面会ス。江原、本多、長尾、山本、フヒシヤル同道ス。男ハ最初ニハ中々承諾ノ様子モ見ヘザリシガ、後ニハ漸ク話ニ乗リ、森村市左エ門氏ニ紹介書ヲ与ヘタリ。
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