八月卅日
- 日付
- 1868-10-15(day)
説明
八月卅日 曇夕晴 木 十月十五日 朝御支度、第 九時 朝餐直ニ御出発、 ヲレヤン といふ汽車場御越、 フロリ ヘラルト 、 クレイシベリョン 、 コンマンタン 両人、 石見 貞次郎 其外御残之者一同為御送罷出る、 コロネル は ビヤリイト 迄御附添、帝御逢取扱ニ付、御供 篤太夫 、 平八郎 、 泉太郎 等御供いたす、第 十時四十五分 同所御発軔、小遣 アンリイ は アレキサントリヤ 迄御召連之積申付る此日天曇りたれとも雨降らす、 巴里 より ツール といふ地迄は過日経過せし途なれは目に触るゝ山河村落の景色いと風情あるを覚ゆ、 ツール より鉄路左折して ボルドウ 江の途を取る、此日第 二時 頃 サンヒイルルコール といふ地ニ而午飯、夜 十時半 ボルドウ 御着、ホテル・デ・ルシルユウと呼ふ客舎御投宿 ボルトウ は 仏国 南陲の一都会にして、市街頗ル繁華なり、多く萄葡酒《(葡萄)》を産し遍く全 欧洲 に鬻く、貿易の盛なる馬寨港に勝るといふ、市街に添ふて一の大河あり、 ジロンド といふ、河巾いと広く水深しといえとも、数々の鉄橋、石橋を架して通路に便す、石橋の長八百メイトル、巾十六七メイトルもあるへく、尤宏壮を極メタリ、シロント河本地より二十里計下流して海に注くといへしか、此辺より水底いと深く、石橋の下流二里程は港にして、大船巨艦輻港《(湊カ)》せり、人口凡拾七八万程といふ
現代語訳
朝、御支度をされ、午前九時に朝食をとって、すぐにご出発。オルレアンという汽車場へお越しになった。フロリ・ヘラルト、クレイシベリョンとコンマンタンの両人、石見貞次郎、そのほか残る者一同が、お見送りのために参上した。
コロネルはビアリッツまで付き添い、皇帝にお会いになる手続きのため、篤太夫、平八郎、泉太郎らがお供した。午前十時四十五分、同所を発車。小遣のアンリイは、アレキサントリヤまでお連れになる予定であると申し付けた。
この日は空は曇っていたが、雨は降らなかった。パリからツールという地までは先日通過した道なので、目に入る山河や村落の景色に、たいへん趣があるように感じられた。ツールから鉄道は左へ折れ、ボルドーへの道をとった。
この日、午後二時ごろ、サンヒイルルコールという地で昼食をとった。夜午後十時三十分、ボルドーにご到着。ホテル・デ・ルシルユウという旅館にご投宿された。
ボルドーはフランス南端の一大都市で、市街は非常に繁華である。多くの葡萄酒を産し、広く全ヨーロッパに売っている。貿易の盛んなことはマルセイユ港にも勝るという。市街に沿って一つの大河があり、ジロンドという。川幅はたいへん広く、水も深いが、いくつもの鉄橋・石橋を架けて交通の便を図っている。
石橋は長さ八百メイトル、幅十六、七メイトルもあると思われ、まことに壮大を極めている。ジロンド河はこの地から二十里ほど下って海に注ぐというが、このあたりから水深が非常に深く、石橋の下流二里ほどは港となっていて、大船・巨艦が集まっていた。人口はおよそ十七、八万ほどという。
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見出し
八月卅日 曇夕晴 木 十月十五日
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言及人物・場所が共通するエントリ
- 日記1868-10-13八月廿八日
八月廿八日 火 晴 十月十三日 篤太夫 、 フロリ ヘラルト 方罷越す、飛脚船勘定之儀申談す、 仏国 飛船商社江罷越、頭取 ウードラア 面会、明日 十時 フロリ ヘラルト 方ニ而打寄相談之積申談罷帰る 礼式懸モリス罷出、国帝より返書有之ニ付、来 十七日 迄ニ ビヤリイト 御越有之度、同所ニ而御逢有之旨申来ル 第 九時 、御乗廻し、 コロネル 御供 第 十二時半 、金銀銅製作御越《(所脱カ)》、 平八郎 、 涌之助 、 コロネル 御供 夜 七時 、劇場御越、 篤太夫 、 平八郎 、 端蔵 、 涌之助 、 玄伯 、 コロネル 御供、第 十二時 御帰館
詳細 - 日記1868-10-14八月廿九日
八月廿九日 曇 水 十月十四日 朝コンマンダント江諸勘定相渡、向後同人給金其外手当四千仏相渡、被下物之儀ニ付 篤太夫 より印紙相渡す、御用荷物詰込いたす 第 十時 、 篤太夫 フロリ ヘラルト 方罷越す、飛脚船会社頭取も罷出、郵船代凡積相渡す、諸勘定は今日右 ウードラア 英国 飛脚船会社《(仏)》に 篤太夫 相渡し、手附返却方申談候上、 フロリ 迄可差越旨申談罷帰る、 篤太夫 東洋ハンク罷越す、為替手形請取方ニ付 涌之助 同道いたす 第 四時 、御乗廻し、 コロネル 御供、第 五時 過御帰館、 ジユリイ 罷出、同人公子御附添 仏国 に罷越、其後 日本 罷越候入費之儀ニ付云々難渋之廉申立る 夜 六時 、 フロリ ヘラルト 、 クレイコロネル 及妻 コンマンタン 両人、其御国士官不残御発程ニ付夜餐被下、 フロリ ヘラルト より為御餞別唐銅置物献上いたす、飛脚船部屋札并勘定書ハ馬寨里へ相廻し可申旨、 フロリ ヘラルト より 篤太夫 江申聞ル フロリ ヘラルト 、 クレイコンマンタン 、パタサン江被下物有之 御残之者ハ 十七日 当地出立、 馬港 罷越可申旨 篤太夫 より申達し、入用□千《(金カ分カ)》フランク、コンマンタント江相渡し毎事申談置 ジユリイ 歎願之儀ニ付七百フランク被下之積 貞次郎 へ申談、金子相渡す、諸書物類写 貞次郎 ヘ相渡ス、 フロリ ヘラルト より御借家ニ付 篤太夫 調印ニ而請負人ヘ相渡候書翰之写差出す、右代弐十フランク八十サ相 渡す、 フロリ ヘラルト 献上之品其外とも荷拵之儀バンサン申残し、六十二番、六十三番と番号申談す 御用御箱之残 コロネル 被下小遣ヘ被下 ホワシミヱール為御暇乞罷出る
詳細 - 日記1868-10-19九月四日
九月四日 曇 月 十月十九日 弐十弐フラ八十サ 山高 分荷物三ツ分 巴里 より 馬港 迄 壱フラ コンネスマン 百八十九フラ四十五サ 馬港 より 横浜 迄運賃 〆 九月四日 飛脚船会社払 荷物運賃残 一 九百九十七フラ三十五サ 惣勘定差引残 コロネル 渡教師被下 一 五百フラク 但同人書状を以願出ニ付 同人渡 一 四百八拾フラク 御旅行中御入用 同人御立替之分 ヒヤリイト より 馬港 之処迄 一 百フラク 同人 巴里 帰途入用 一 六拾フラク 御傘壱本、敷物壱枚 馬港ニ而 一 千八百フラク トルラル英貨に為替いたす 一 九拾フランク 倚子五《(椅)》ツ 壱ツ 一 七百フラク 船中ニ而小遣被下 九月四日 一 三拾フラク 馬港 客舎小遣酒代 九月六日 メシーナ 一 弐十フラク 珊瑚枝壱本 一 八フラク 御上陸船賃 一 六フラク 平八郎 朝 篤太夫 飛脚船会社江罷越、船部屋及荷物積入等之儀引合、賃銭残相渡す、夫より御買上物いたし罷帰る 第 九時 頃市中御遊覧、 コロネル 、 玄伯 等御供、第 十一時 午餐、午餐写真御写真御越《(後脱カ)》《(ニカ)》、 コロネル 御供、夫より コロネル 市尹役所江為御挨拶御名 札持参罷越す、 篤太夫 御買上物御用飛脚船諸引合向等いたす 教師より コロネル 江書状を以願出ニ付五百フラ被下、 ジユリイ 召使之儀ニ付名代人罷出□□ 篤太夫 引合差帰《(候間カ)》す 第 三時 御乗船、 コロネル も御船迄御供いたす 御船はペリユーズといふ飛船なり、此日朝より雷雨にて、殊風烈しく波濤はけしく、一同海疾なるへくと更に快然の想なし、夕 五時 頃より細雨来る、御附添 コロネルビレツト 御暇申上引取、第 七時十分 発釘《(〓)》せり夜中船少しく動揺せしが思ひしよりは安かりし
詳細 - 日記1868-8-2西暦
西暦 八月二日 我 六月十四日 朝 八時 御出発、 八時半 サンラサアール《西街道の汽車場》、 九時五ミニユート 、同所御発軔、直ニ セイヌ 御渡り ダニイールと名ク橋 セイヌ に架ス、長百六十メイトル、ポヲウルと云ふ鉄の類ニ而作ル、重サ百万キロ、鉄の突合せの捻ヂ三百十七ネヂ、直ニ Bezons といふ田舎 セーヌ の河上に架するなり、川上に架す橋九ツニ連架せり、壱橋毎ニ三十メイトル宛あり、汽車道の左は総而大なる車輪を拵置、石を掘出し、 巴里 に運輸す、其右手は田畑多く、小溝を貯、諸の野菜を作り出し、これを 巴里 に売る、尤富饒の土地ニ而景色も稍佳なり、村落毎ニ家富、人豊にして畑々の手入能行届けり 巴里 より半時ニ而汽車サンセルマンの森中を経過ス premiere station de Paris. ou il y a grand marche ou bien laprobisionner《(provision)》 de bacherie《(boucherie)》 de Paris.il y a une maison de detention C'est ou l'on garde les hommes condamnaient《(condamnes)》 a morts.pont sur@a Seine 37 arche, les grandeurs qui ne sont pas egales. 十時十五分 Mantes といふ所着、 巴里 より十五里、tunnel de Manvoisin地道七百メイトルといふ、 十時四十五分 Bueil といふ所着、 十一時弐十五分 Evreuxといふ一小市街に添ふて過る、汽車中ニ而午餐、しかも貯整たレハ、毎事餐肴の差支なし、 十一時四十五分 Conches着、 十二時 Beaumont-le-Roger 着、 十二時十五分 Serquigny 着、小憩、此辺ポンムの樹多し、土地饒にして小山多し、樹木叢茂して風色美なり、此辺藁屋chaumiere多し、女牛羊を飼ふ、昔時は多く民家藁屋を用へしが、近来政府これを禁す、これ火災を恐るゝ為なり、唯牛羊を飼ふに用ふ、此辺多く獣畜を飼養ひ、 巴里 に鬻ふ、此辺草野多し、牛羊を養ふbdrage《(barrage)》を多く拵置て草野の乾燥せし節、水を草野《小水関門》に灑く、 十二時四十分 bernay《(Bernay)》 着、一の市街なり、Il y a des nombreuses fabriques des toiles第 一時 Saint-Mards-orbec 着、 一時二十分 Lisieux 着、繁華の地也、麻の製作所多し、 巴里 より四十八里、 a2 heures moins 15 nous avons passe d'assez longue tunnel qui s'appelait Motte,elle a longueur de 2365 Metres第 二時 Mezidon 着、第 二時半 Cain《(Caen)》 着、汽車乗替いたす、此地一小市街ニ而運船の便あり、第 三時十六分 Bayeux 着、第 三時五十五分 Lison 着、 四時十分 Carentan 着、此辺原野多く牛馬ヲ養ふ、第 五時半 Cherbourg 着、汽車場より公子江は コロネル 御供ニ而御旅宿御越、 篤太夫 、 平八郎 荷物に附添ホテール・デ・ヨウロツパといふ客舎に至りしか、旅客多く部屋少しとて再市街を巡り、ホテール・デ・ユニベールといふ客舎御投館、此日暑気強く、午後は殊ニ其熱を覚ゆ、 シヤルブール 御着後は稍凌能し、 Valognes シヤルブール 着、前之汽車休息所
詳細 - 日記1868-10-16九月一日
九月一日 晴 金 十月十六日 朝 七時 過客舎御発、馬車ニ而市街御覧、夫より港口を御通行ニ而 ビヤリイト への汽車場ニ至る、第 八時 発軔、市街の南辺は松林多く松根の皮を剥て松汁を取る、第 十時半 モルサンス 御昼食、Morcenx第 十二時半 バヨンヌ 御着、暫時御休息、第 一時 ビヤリイト 御着、汽車場迄礼式懸之者罷出、国帝御逢之手続申聞る、汽車場より馬車ニ而客舎御越、直様御洋服ニ而帝居御越、 篤太夫 、 コロネル 御供、帝居は海浜ニ而いと狭小なる休息所様の家作なり、玄関を入りたる広間迄帝及后妃共御迎申上る、夫より帝の居間御越、帝后妃とも暫時御閑話、御暇之御詞等御述、御書翰御渡、直ニ御引取、 篤太夫 、 コロネル は次の間ニ扣御待申上る、御帰之節帝后妃共次の間迄御送、太子は玄関まて御送申上る、御逢も御滞なく相済ぬれは直ニ客舎御発し、馬車ニ而市街御遊覧、海浜を御行過、 バヨンヌ より流て海に入る川口御越、 ジンギユ といふ川口の海に接せし処、築出し波塘を作る場処御一覧、河に沿ふて バヨンヌ 御越、第 五時 御着、ホテル・サンテチヤンといふ客舎御投宿、御着後市中御一覧、 平八郎 、 コロネル 御供いたすHotelSaintEtienne
詳細 - 日記1868-10-25九月十日
九月十日 晴 日 十月廿五日 朝 六時 過 アレキサンドリヤ 着船、直ニ旅装を整ひ、川蒸気船ニ而港口の波塘より御上陸、馬車を雇へ市街を行過、ホテル・アングレテイルと いふ客舎御投宿、此夕 六時 汽車発軔、明朝 六時 スエイズ 着之旨船将申聞る、第 十時半 午饌、 十一時 頃馬車ニ而市街御遊覧 アレキサンドル より スイズ 迄四十八里 海岸より諸方御一見、 ボンベ といふ石柱御一覧、二千年来の物とのよし夫より 埃及 王の花園御越、第 二時 過御帰館 一 拾七フランク 馬車代市中御見物用 一 百フランク アンリイ 四日道中賄料被下 一 弐百六拾九フランク半 アレキサンドル 旅宿払 但御昼食御夜食ビエイル其外共払 一 弐拾フラク 小遣之者酒代被下 一 拾フラク 蒸気車中御入用 一 拾フラク 馬車代、但市中御見物用 一 弐百弐拾フラク スヱイズ 旅宿御入用 小遣被下共 御昼食其外部屋小遣手当共 第 四時 御夜餐 小遣 アンリイ は是より御暇被下、 巴里 江差帰す 第 五時 客舎御発し、汽車場御越、馬車は御着御発共飛船会所より差出せし乗合馬車なり、市街はつれなる汽車場ニ而御乗車、第 七時 発軔、此夜車中御徹夜、翌暁第 七時 過 スヱイズ 御着、ボテル・デ・アングレテイルといふ客舎御投館 昨夜御通行之道筋ニ而 カイロ といふ 埃及 都府ありしが、夜中なれば物色せしものなし、 カエロ 都辺は車の両辺の曠原に時々細木萎草抔見及しか、夫より原野空漠にして絶而草木なし、白沙茫々として眺望恰も□海《(渡カ)》のことし、稀にして人家の索落たるも、多く土もて築立て蜂窩燕巣に異ならす、土人は色黒く、白巾ニ而頭上を包み、僅に弊醜の単衣を纏ふのみ、駱駝驢馬多く、緬羊の皮の袋もて作たる物に水を盛てこれを駄す 仏国 商社ニ而催せる地中海の堀割を スヱイズ 御着の汽車中に見る、尤壮大のものなりといふ
詳細 - 日記1868-12-31十一月十八日
十一月十八日 晴 十二月三十一日 朝より空晴て寒威更に甚し、第 八時 頃 塩田 三郎 を訪ひ、 フロリ ヘラルト へ差出候書翰本書并訳書とも出来、 三郎 へ托し治部助へも一応申談、 仏国 差出方申談 御直書洋書翰ウツトレイ相渡候分 三郎 へ托す、外ニ 仏国 行二封、 篤太夫 コロネル へ私状とも同人へ相托す 飛脚船商社より小連発銃同所に有之旨ニ而、 三郎 へ書翰来り有之ニ付請取 午後連発銃請取方ニ付海岸十番飛脚船会社へ罷越、品請取、夫よりモスネ方立寄、私用買上物いたし、瑞西九十番商館へ罷越す、いまた弾丸上陸なく引取方難出来ニ付、夫より 瑞西 の洋店ニ而時計四ツを買上、夕方九十番ニ而銃弾箱請取方いたす、夜に入裁判所へ相越、 東京 行の印章を請ふ、小連発銃之儀申達す、夜 七時 頃幸二屋方へ帰宿
詳細 - 日記1868-8-24七月七日
七月七日 晴 月 八月廿四日 〆仏貨三千三百三十フランク持出し千フランク弐十八フランク コロネル 渡写真代 朝 七時 御旅館御発し、 篤太夫 、 端蔵 、 涌之助 、 コロネル 御供、馬車ニ而西街道の汽車場御越Rouen迄の汽車札を買ひ、第 八時 汽車発軔、此日天気朗晴、車中之眺望いと清絶なり、連日之雨ニ而塵沙を潤し、車中塵埃の患もなく処々の小山には樹色稍秋色を催し、田頭に鋤る農夫は秋成に繁忙なるを見る、第一の スタシヨンマント 迄は シヤルブー の鉄道也、 マント より鉄道を異にし ルワン の鉄道を取る、第 九時半 Vernon 着、同所に壱ケの製□所軍事《(鉄カ織カ)》に用ゆる馬車蒸気車の器械□といふVernon grand arsenal de construction pour l'artillerie et le train (equipage militaire). 第 十一時 ルワン 着、オテル・アングレーテイルといふ セイユ の河岸に 添たふ《(るカ)》客舎御投宿、着後直ニ午餐、済て楼上ニ而カツフヘーを呑、第 十二時十分 客舎を発し、馬車を雇へ市中を巡覧し、木綿糸を製する場所御一覧、39aheure《(sic)》生綿打立より繰糸仕上迄総而広大なる器械にて其巧緻精密驚くへく感すへし、夫より精舎製薬所御越《(マヽ)》、硝石其外数々の精舎術御一覧 御一覧後河に添ふて一里計、染物之場所に御越、白布晒上ケ、形附染立之手続逐一御覧、御帰路市街御遊覧、古寺両三処御立寄御一覧《一の高き塔に御登り夫よりノヲトルタム前を通り シヤン タルク 英人の為に焚死せし場処を過る》、第 五時 御帰館 本地は 巴里 より ロワアル 江の沿路ニ而、土地饒富、人民繁殖せり、市街も頗る広く且美麗なり、四沿は総而小山ニ而市街を擁し セーユ の河市中を流れ一の港を為せり、人口は拾万余あり、本地ハ ロワール 江達する便船ありて交易も尤盛なりといふ 夜餐後河辺御遊歩
詳細 - 日記1868-10-12八月廿七日
八月廿七日 月 晴 十月十二日 午後 ホワンブロン 御遊歩、 平八郎 、 涌之助 御供、夕 五時 御帰館、仏帝帰巴延引ニ付為問合 コロネル 外国局江御遣し、外国局より早々 ビヤリイト 帝滞留所江問合、挨拶可有之旨申答候由ニ而罷帰る、 栗本 貞次郎 罷出る
詳細 - 日記1868-10-23九月八日
九月八日 晴 金 速朝十里半 昼後十一里半 十月廿三日 昨夜より風穏かに船静かなり、朝来天気朗晴、軽寒軽暖〓行も尤随意なり 六百八十八里 午後風替りて東北となる、片帆間切ニ舟行速なり、第 二時 頃 カンシー といふ孤島を北方に見る、雲靄故甚朦朧たり、終日〓行穏かなり、 メシーナ より本日の第 十二時 迄四百十一里を〓行す、此より 阿歴山大 迄四百廿五里あり、夜に入ても風静に船穏かなり 御部屋四ツ 三ツ下部屋入 五ツ部屋入 五ツ部屋 〆拾七ツ 此訳 井 四ツ御用荷物 弐菊 三 壱涌 弐 篤 壱端 三ツ玄 壱ツ山 服 〆拾七ツ 一 五百フランク アンリイ 御褒美被下 一 弐百フランク 同人帰巴小遣用被下 ○右太罫ノ傍線ハ原本抹消セルヲ示ス。
詳細 - 日記十一月二日
十一月二日 晴 曇 払暁より駅を発し、 大森 にて午餐、七ツ頃着京、春来投宿せし石街島屋甚蔵といふ旅店に卸担、後、 静岡 発途口占之作、多忙に紛れ打捨置しか、今夜稍閑なれハ聊推敲を加へて一絶を呵成す 無能儘憂自全真。懶向上揚玉塵《(一字脱)》。厭世心如霜着葉。輭紅宜見不勝春。 発程之口占にも似合ねとも、成るに任セ附裁せり、何か老成がり、又ハ賢人めくなどの嘲もあるへけれと、こハ 篤 の真情絶而矯飾なき処なれハ、後にこそ知る人もあるらめ 客歳復月初三、 篤 欧洲 より帰航、 民部公子 を奉し蕃浜に解纜せしハ恰昨日の如くにて最早一年を消除せり、真に年光如下坂丸不与我蹉跎といふ昔人之歎も宜なることゝ物に触れ事に図りてハ感慨の弥増のミ、 篤 の客年 東京 着之頃ハ、心事も雨後の雲のことくなりしか、兎まれ角まれ 駿河 の国の見まほしと袂を振ふて赴しか、其後春来再三之公務にて出京を弾指すれハ都而六度の往返をなせり、因望岳之一絶を得たれハ此に附裁す 弾鋏幾回喚渡河。週年六過富山阿。自疑雲物与人老。雪満峰頭白髪多。 狂詩にひとしけれとも、触感之儘記し置ぬ 意多歳月促とハ 杜甫 之警句、矢張、詩人忠厚之意念より出たるなるへし、 篤 の去歳 仏国 にて国家之傾覆を聞知し、日夜痛心難堪、翅なくとも万里之波濤を飛越し、実況見まほしくと帰期を数ふるの間、いとも年月の長きを覚へしか、豈料帰国後駿地に移り、瑣々たる事務に係るも慰心の端にもやと、稍其事に処せしか、又纏身の鬱累を為し、さり とて、紛更之月日を送りしに今又其境を去れは、いかにも昨日の想を為すハ、我意念より出て久促長短をなすことなれとも、自ら吾を疑ふへき程なり、彼岳陽楼の記中ニ喜憂己より出て物に就て感を為すの理を説しも、ますます古哲の予を欺かさるを知る
詳細 - 日記1919-1-30一月三十日
一月三十日 木 降雪 厳寒 午前七時 起床、入浴、朝食例ノ如クシテ、後、 松井 吉太郎 氏ノ来訪ニ接ス、林訒氏来リ香川県下ニ郡長勤務ノ由報告アリ、 女子大学 麻生 正蔵 氏来話ス、 大井 令淳 氏来リ、田野沢鉱山ノ事ニ付 古河 家ニ托シテ調査セシ顚末ヲ告ケテ 西田 氏ヘノ通知ヲ托ス、 午前十時 姉崎 博士ヲ 帝国大学 ニ訪ヒ、帰一協会ノ事及同氏 欧洲 行ノ事ヲ談ス、 十一時 高等商業学校 ニ抵リ例ニヨリ講演ヲ為ス、畢テ 十二時半 大隈 侯邸ニ抵リ 添田 氏 欧洲 行ノ送別会ニ出席ス、 午後三時半 兜町 事務所ニ抵リ、来人ニ接シ又、事務ヲ処理ス、 六時 築地 精養軒 ニ抵リ 仏国 ヨリ渡来セル飛行隊ノ歓迎会ニ出席ス、夜 十時 散会、帰宅後、新聞紙ヲ一覧シ書類ヲ点検ス (欄外) ■■[img図]〓■ 仏国 ヨリ来レル飛行隊ハ大佐以下五十余名ニシテ仏政府ヨリ派遣セシモノナリ、依テ帝国飛行協会ニ於テ宴会ヲ開キテ歓迎ス、当夜、 久邇宮 殿下台臨アリ、余ハ本会ヲ代表シテ歓迎演説ヲ為ス
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