渋沢栄一 LOD ビューア

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1915-10-23

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是日栄一横浜

日記 (1)

DKB20001m-0290詳細

十月廿三日

十月廿三日 土 曇、 午前六時 起床、入浴シテ、朝飧ヲ食ス、後、二三ノ来人ニ接シ他ノ依頼ニヨレル揮毫ヲナシ、 九時 家人ニ告別シテ家ヲ離ル、先ツ 徳川 公爵邸ヲ訪フテ告別シ、尋テ 大隈 伯爵ノ邸ヲ訪ヘ少間会話シテ、又、 中野 武営 氏ヲ訪ヘ、 十時半 第一銀行 ニ抵リ行員一同ニ別辞ヲ述ヘ、畢テ事務所ニ於テ同族親戚一同ニ告別シ、共ニ午飧ヲ食ス、 十二時 東京 停車場ニ抵ル、送別ノ人多数来聚シテ各余カ健康ヲ祝ス、 石井 外務大臣、 河野 農商務大臣、 加藤 男爵、 板垣 伯爵等ノ名士モ来リテ別ヲ送ル 十二時半 発車、 横浜 着直ニ汽船春洋丸ニ搭ス、一行ハ 武之助 、 正雄 、 増田 明六 、 頭本 元貞 、 堀越 善重郎 、 野口 弘毅 、 横山 徳次郎 、長野生等 渡辺 利次郎 氏《(永野生)》ヲ加ヘテ合計十人、外ニ 星野 錫 氏一行七名ニシテ 横浜 港ニ送別スルモノ実ニ数千人ノ多キヲ見ル、 午後三時 解纜シテ 東京 湾内ニテ暫時碇泊シ、夜飧後、進行ヲ始ム、是ニ於テ余等一行皆船中ノ人トナル、夜、 正雄 、 長野 等ト遊戯ス、 十二時 就寝

中野武営加藤堀越善重郎増田明六東京横浜

年譜 (2)

DK330002k詳細

是日栄一横浜より乗船して渡米の途につき、十一月一日ホノルルに寄港す。

是日栄一横浜より乗船して渡米の途につき、十一月一日ホノルルに寄港す。

第33巻p.18-p.35
DK570329k詳細

是日栄一横浜を出航、十一月八日サン・フランシスコに上陸、アメリカ合衆国各地を巡歴の上、十二月十八日サン・フランシスコを発し、ホノルル経由、五年一月四日横浜に帰着す。

是日栄一横浜を出航、十一月八日サン・フランシスコに上陸、アメリカ合衆国各地を巡歴の上、十二月十八日サン・フランシスコを発し、ホノルル経由、五年一月四日横浜に帰着す。

第57巻p.681旅行/外国旅行

事業 (1)

J-1199詳細

大倉喜八郎寿像除幕式

是日、大倉美術館構内に於て、大倉喜八郎の寿像除幕式挙行せらる。栄一出席して、祝辞を述ぶ。

新聞 (1)

0100091981詳細

忘られんとせる化学工業研究所[社説]

吾人は欧洲戦乱の勃発前より、独逸の活きたる例証を挙示して、彼れが僅々半世紀以内に成遂げたる富強策の根本の一は化学工芸にあり、而して其の又根源が国立公立民設の理化学研究所に存する旨を述べ、我国に於ても同研究所設立の緊要を論じ、次いで昨秋開戦と同時に医薬品の欠乏となり染料の大払底を来すや、更に雑報に論説に、化学工芸奨励の一日も寛せにすべからざる所以を説き、化学工業研究所設置は幸に世の輿論となりし観ありしが、研究的執着心の薄き我が国民は、何時とはなしに一時的の軍需品注文引受等を話題とするのみにて、戦後方策の大問題は殆んど忘れたるが如し。政府者が漫りに八朱補給を声明して染料保護会社の創立計画に醜陋を極め、会社成立後の実績疑われつつあるも、吾人の謂う根本的技術家養成を度外視せるを以てなり。 戦後東洋及南洋の貿易は我日本の掌中に収めざるべからず、との論は常に人の唱うる所なるが、貿易の秘訣は、工芸品を多量に安価に製造するを以て第一要義とす。狭隘なる土地に於て半農半工の副産とも称すべき生糸が、今尚我輸出貿易の大宗なるを思わば、我貿易の前途は甚だ心細きを感ぜざるべ…

渋沢栄一