渋沢栄一 LOD ビューア
日記DiaryEntryDKB20004m-0061

三月二日

日付
1919-3-2(day)

説明

三月二日 日 ○天候ノ記入ヲ欠ク。 此日ハ病気ニテ起床スルヲ得ス、 堀井 医師ノ来診アリテ更ニ 入沢 博士ノ来診ヲ請フテ療養ニ勉ム、爾来三日、四日ト経過シテ喘息ノ発作アリシモ熱度ハサマデ高カラザリシガ、越テ五日ノ午後ヨリ病勢大ニ進ミテ悪寒強ク、午後ニ至リ高度ノ発熱アリテ苦悶甚シク、殊ニ食慾全ク絶シテ牛乳サヘモ呑ミ得サリシ程ナリシカハ、自身ニテモ大患タルヲ自覚シ、当日以後約一週間許リハ回復ノ望ナキモノト思フテ、身後ノ処置ニ付、海外ニ於ル例ノ国際ノ関係ヨリ、国内現在ノ思想界ノ不安定ナル事、経済界ノ膨脹セルヨリ其実質ノ鞏固ナル事、道徳心ノ日ニ増シテ衰頽セル事、資本労働ノ調和不完全ナル事、社会政策ノ樹立セサルニヨリテ防貧ノ策及恤救ノ方法具備セサル事等憂慮スヘキ案件頗ル多ク、之ニ加フルニ一家内ノ小事ニ於テモ同族ノ安寧協和ニ付テモ訓諭スヘキ事共多々アリシヲ以テ、熱度高ク苦悶ノ加ハルニ従テ種々ノ憂患胸中ニ往来シテ、時々医臥《(師)》ニ請フテ病ヲ努メテ心事ヲ叙述シテ遺言センコトヲ要求シタルモ、医師ハ其事ノ治療ニ害アリトテ許容セザリキ、斯ノ如キ有様ニテ数名ノ看護婦ノ扶助ニヨリテ約一ケ月ヲ経過シ、 四月 ニ入リテ日日少シク食事モ進ムヲ得、殊ニ熱度ハ 三月 下旬ヨリ低下シテ三十六度台トナリ時ニ小高低アルモ四五分間ヲ超ヘサルニヨリ、医師モ回復ヲ証言シ、自身ニモ平愈ノ望アルモノト思フテ薬方、食事ニモ心ヲ用ヘテ 四月二三日 頃ヨリ病褥中ニ坐シテ食事ヲ取ルヲ得ルニ至リ、其九日ニハ室内ヲ歩行シ入浴ヲモ試ムル事トナレリ是ヨリ日々食慾モ増加シ、気力モ回復シテ 四月 中旬ヨリ室内ニ於テ親戚及懇親ノ向ニ会話シ、月末ニ至リテ外出ヲ試ミ 兜町 事務所ニ出勤スルヲ得、 廿四五日 頃ヨリ稍平日ト同シク来人ニモ接シ、内外ノ事務ヲ弁スルニ至レリ

現代語訳

この日は病気のため起床することができなかった。

堀井医師の来診があり、さらに入沢博士の来診を請うて療養に努めた。その後、三日、四日と経過して喘息の発作があったが、熱はそれほど高くなかった。しかし五日の午後から病勢が大いに進み、悪寒が強く、午後になると高熱が出て苦悶が甚だしくなった。特に食欲はまったくなく、牛乳さえ飲むことができないほどであったので、自身でも大病であることを自覚した。

その日以後、約一週間ほどは回復の望みがないものと思い、死後の処置について、海外における例の国際関係から、国内の現在の思想界が不安定であること、経済界が膨脹しているためにその実質を堅固にしなければならないこと、道徳心が日増しに衰退していること、資本と労働との調和が不完全であること、社会政策が樹立されていないために防貧の策および救済の方法が備わっていないことなど、憂慮すべき案件が非常に多かった。これに加えて、一家内の小事においても、同族の安寧と協和についても訓諭すべき事柄が多々あった。そのため、熱が高く苦悶が増すにつれて、さまざまな憂患が胸中を去来し、時々医師に願って、病を押して心中の事を述べ、遺言したいと求めたが、医師はそれが治療の妨げになるとして許さなかった。

このような状態で、数名の看護婦の助けにより約一か月を経過し、四月に入ると日々少しずつ食事も進むようになった。特に熱は三月下旬から下がって三十六度台となり、時に多少の高低はあっても四、五分を超えなかったので、医師も回復を証言し、自身でも平癒の望みがあるものと思って、薬方や食事にも気を配った。

四月二、三日頃から病床に座って食事を取ることができるようになり、同九日には室内を歩行し、入浴も試みることとなった。これより日々食欲も増し、気力も回復して、四月中旬から室内で親戚および懇親の人々と会話し、月末には外出を試み、兜町事務所に出勤することができた。二十四、五日頃からは、ほぼ平日と同じように来客にも接し、内外の事務を処理するに至った。

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見出し

三月二日 日 ○天候ノ記入ヲ欠ク。

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