渋沢栄一 LOD ビューア
年譜ChronologicalEntryDK540032k

是日栄一、渋沢事務所に於て、当農場顧問農学博士原熙の来訪に接し、当農場の経営に関し要談す。

日付
1915-3-6(day)
和暦
1915年 (大正4)
伝記資料 階層
3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 > 2部 実業・経済 > 5章 農・牧・林・水産業 > 1節 農・牧・林業 > 1款 三本木渋沢農場
第54巻
p.102-p.105

伝記資料 本文

この綱文の根拠となる出典史料の本文 8 件

  1. 渋沢栄一 日記 大正四年

    第54巻 p.102

    渋沢栄一 日記  大正四年          (渋沢子爵家所蔵) 三月六日 晴 ○上略 午前十一時事務所ニ抵リ、原熙氏ノ来訪ニ接シ、食事ヲ共ニシテ三本木農場ノ事ヲ談ス○下略 - 第54巻 p.103 -ページ画像

  2. 集会日時通知表 大正六年

    第54巻 p.103

    集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵) 二月十六日 金 正午 三本木農場ノ件相談会(兜町)確定

  3. 渋沢栄一 日記 大正七年

    第54巻 p.103

    渋沢栄一 日記  大正七年        (渋沢子爵家所蔵) 二月十四日 晴 夕方ヨリ曇夜ニ入リテ雪降ルモ少シクシテ歇ム、帰路自働車動揺セリ ○上略 正午事務所ニ抵リ、原氏・金子氏等ト三本木農場ノ事ヲ談シ、午飧ヲ共ニス○下略

  4. 集会日時通知表 大正七年

    第54巻 p.103

    集会日時通知表  大正七年      (渋沢子爵家所蔵) 二月十四日 木 正午 三本木農場ノ件(兜町)

  5. 竜門雑誌 第六〇〇号・第五一―五二頁昭和一三年九月 渋沢子爵と国営開墾 水野陳好

    第54巻 p.103-104

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  6. 渋沢栄一 日記 大正一〇年

    第54巻 p.104

    渋沢栄一 日記  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵) 二月十七日 晴 寒 ○上略 六時半事務所ニ抵リ、原農学博士等ト三本木開墾会社ノ事ヲ談シ夜飧ヲ共ニス○下略

  7. 集会日時通知表 大正一一年

    第54巻 p.104

    集会日時通知表  大正一一年         (渋沢子爵家所蔵) 三月九日 木 午前十一時 三本木農場ノ件(兜町)

  8. 〔参考〕竜門雑誌 第三七五号・第五六頁大正八年八月 故板垣伯の思出

    第54巻 p.104-105

    竜門雑誌  第三七五号・第五六頁大正八年八月 ○故板垣伯の思出 七月十六日の「中央新聞」は、青淵先生の故板垣伯に対する思出として、左の如き談話を掲載せり。 板垣伯が大蔵省の参議であつた当時、自分も同省の小役人であつた - 第54巻 p.105 -ページ画像 関係から、官職上お目に掛かつたことがあるが、其後自分は実業界に入り、全く政界とは交はりを絶つて居たが、伯は △自由民権の 議論を唱へ、各地に遊説して其の鼓吹に努められ、彼の岐阜で「板垣死すとも自由は死せず」の千古不滅の名句は世人に膾炙されて居る所で、終始憲政の為めに身命を賭して来られた、意気軒昂たる主義の為めには一歩も人に譲らぬと云ふ恂に武士気質な愉快な人である、爾来余り親密ではなかつたが、伯は小室信夫氏とは △至つて懇意 であつたので、時々お目に掛つたことがある、彼の明治廿三年であつたが、伯が自由党の首領であつたので、我国の経済の発展は陸海共に運輸の便を開き貿易を盛ならしむるにあるが、夫れには先づ船舶の拡張に俟たねばならぬから、之れが政策に就て政府に力を入れさせたいから △党の力を添 へて貰ひたいと申出たら、伯は君は銀行家には似合はぬ大政策を抱いて居るのは感心だと賞められたことがあつた、又伯が大層馬が好きで、乗馬が上手であると聞いたので、奥州三本木牧場で飼育した馬を贈つた処、非常に喜ばれた、輓近は全くお目にかゝる機会が少かつたが、自分は伯の令嬢千代子さんを浅野総一郎氏の令息泰治郎氏に媒酌した関係がある、云々

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