渋沢栄一 LOD ビューア
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是日栄一、日比谷平左衛門・諸井恒平を同道して、井上馨を其邸に訪ね、毛織物工業の合同と陸軍千住製絨所払下に関して意見を述ぶ。

日付
1913-1-14(day)
和暦
1913年 (大正2)
伝記資料 階層
3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代 > 2部 実業・経済 > 3章 商工業 > 3節 毛織物業・製帽業 > 1款 千住製絨所払下問題
第52巻
p.464-p.466

伝記資料 本文

この綱文の根拠となる出典史料の本文 5 件

  1. 渋沢栄一 日記 大正二年

    第52巻 p.464

    渋沢栄一日記 大正二年         (渋沢子爵家所蔵) 一月十四日 晴 寒 ○上略 午前九時井上侯爵邸ヲ訪ヘ、日比野《(日比谷)》・諸井二氏ト共ニ毛織物工業合同ニ関スル意見及千住製絨所払下ノ事ヲ請願ス○下略

  2. 渋沢栄一書翰 諸井恒平宛 (大正二年)八月九日

    第52巻 p.464

    (諸井恒平氏所蔵) (別筆) 拝啓 益御清適奉賀候、然ハ本日鎌倉御滞留之井上侯より、千住製絨所払下の件ニ付き用件有之候ニ付、日比谷氏之外ニ本件ニ関し必要なる人同行出向せよとの電話有之候間、日比谷氏と貴台とを同行の上、来十二日午前八時十五分新橋発九時廿七分鎌倉着汽車ニて参上候旨御答致し置き、貴台へ左之通発電致したる次第ニ御坐候 製絨所の件ニ付き鎌倉の井上侯より電話あり、十二日早朝同侯を訪問する心得にて帰京ありたし 右ニ付き同日ハ発車前新橋にて待合せ御同行之御積にて御出向相成度希望致候、尤も日比谷氏ハ平塚ニ旅行中の由ニ付き同地へ打電、同時刻ニ鎌倉へ到着有之度旨申入置候 幸ニ汽車時間都合良く、九時廿九分同地ニ着する平塚発の汽車有之候 右之段急き得貴意度如此ニ御坐候 匆々敬具 八月九日 渋沢栄一 諸井恒平様

  3. 渋沢栄一 日記 大正三年

    第52巻 p.464-465

    渋沢栄一日記 大正三年         (渋沢子爵家所蔵) 一月十六日 快晴 寒威厳ナラス ○上略 午後二時陸軍省ニ抵リ、辻村経理局長ニ面会シテ、千住軍絨製造工場払下ノ事ヲ協議ス、大倉・日比谷・諸井三氏同行ス○下略 ○中略。 一月十八日 曇 寒威強シ ○上略 諸井恒平氏来、陸軍製絨工場払下ノ事ヲ談ス ○中略。 一月二十九日 曇 寒威強シ - 第52巻 p.465 -ページ画像 ○上略 午前十時事務所ニ抵リ諸井恒平氏来リ○中略陸軍製絨所ノ事ヲ談ス ○下略

  4. 渋沢栄一 日記 大正六年

    第52巻 p.465

    渋沢栄一日記 大正六年         (渋沢子爵家所蔵) 一月六日 快晴 寒 ○上略 午後五時半浜町常盤屋ヘ抵リ、毛織物会社合併ノ事協定セシニ付祝宴ノ席ニ臨ム、金子子爵・阪谷男爵及三会社ノ重役・技術長等二十人余来会ス、夜九時半散会○下略

  5. 日本毛織三十年史 日本毛織株式会社編 第三三―三五頁 昭和六年一月刊

    第52巻 p.465-466

    ○第一編 第三章 日露戦後の発展時代 第四節 毛織合同運動と当社 大正元年八月、我が羊毛工業界の一角に、突如として合同運動が起つた。 此の運動の動機に就て当時世上に伝へられたる所に拠れば、前年来羅紗の市況が振はなかつたので、各製絨会社は成績面白からず、之が転回の方策として東京製絨・東京毛織物及び後藤毛織の三社合同して陸軍々絨の製造所たる千住製絨所を払下げ、軍絨事業を民間会社の手に移さうといふのであつた。当時の政府は恰も政友会の支持せる西園寺内閣で、財政の整理と民業発達のために、官業を民業に移すべしといふ説が盛に唱道せられた折柄であつたので、合同説の可能を伝へられたが、それには東京の三製絨会社のみではなく、関西製絨界の重鎮たる当社を、合同に加へなければ効果が乏しいといふので、工業協会より当社に対して、此の合同に加はるべく慫慂して来たのであつた。然し当時、当社の営業状態は極めて順調であつて、三会社と同一に断じ難き点あり、容易に此の勧説に応じ難き立場にあつた。即ち、合同談の起れる翌大正二年六月、四社の資産状態は左の如くであつた。 会社名      払込資本       積立金     最近配当率 円        円      割 東京毛織物会社  一、二〇〇、〇〇〇   一〇、〇〇〇   〇・八〇 東京製絨会社   一、二五〇、〇〇〇  一〇〇、〇〇〇   〇・九〇 後藤毛織会社   一、六五〇、〇〇〇   三七、〇〇〇   〇・八〇 日本毛織会社   二、六二五、〇〇〇  六七三、〇〇〇   一・五〇 斯くの如く資産状態に相違があつたので、当社は此の合同に加はるを欲せず、また陸軍当局に於ても、尚早を唱へて払下げに反対を表したので、運動は効を奏せず、合同談もまた之に伴れて立ち消えの姿となつた。 然るに、其の後製絨界は、依然として振はず、経営愈々困難となり大正三年に至りて合同談の再燃を見るに至つた。此の度は払下げ問題と合同問題とを切り放し、東京製絨会社及び東京毛織物会社の二社と当会社を合同しやうといふのであつて、これがため工業協会は、渋沢栄一男(渋沢子)を煩はして、三社の間を斡旋する所あつたが、此の運動は其の合同条件に於て、東京側二社と当社の意見折合はず、合同談は又復不調に了るの余儀無きに至つた。蓋し、当時川西社長も東京に出張して交渉に与り、議は前回に比し余程具体的に進んでゐたが、 - 第52巻 p.466 -ページ画像 東京側二社は、当社株一株に対し二社株二株を以て合同の基本条件としやうとし、当社側は、当社株一株に対し二社株三株を唱へ、双方相譲らざりしため交渉の成立を見るに至らなかつたのである。 越えて欧洲戦時の大正四年に至り、後藤毛織会社は鈴木商店の手に移つて東洋毛織会社と改称せられ、一層三社の合同的気運が濃厚となつた。三社は合併の条件として、時の大隈内閣に向つて、三たび千住製絨所の払下げを迫つた。当時世上に伝へられたる払下げ条件なるものは、千住製絨所の固定資金二百万円、流通資金百万円、合計三百万円を無利息十ケ年賦を以て償還払下げを受けやうといふのであつた。然し、此の払下げ運動は陸軍側の反対のために成らず、結局、三社は払下げ問題と合同問題を切り放して談を進め、大正七年に至り三社合併、東京毛織会社の設立を見るに至つたのである。

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